【茨木高校】華麗なる人脈!

2021年09月27日(月)更新
フリージャーナリストの猪熊建夫さんがDiamond Onlineに掲載されている記事
【茨木高校】華麗なる卒業生人脈!川端康成、大宅壮一、パナソニック前社長、東芝前社長…
 
 ノーベル文学賞作家の川端康成の母校である。大阪市と京都市の間にある茨木市は典型的なベッドタウンだが、大阪府第四尋常中学校(その後茨木中)として1895(明治28)年に創立された伝統校で、企業経営者、学者、文化人などをたくさん送り出している。
 

まずは、「前社長」の2人を紹介しよう。

 
 電機業界の名門であるパナソニックと東芝の社長を務めた人物が、茨木高校(大阪府立・大阪府茨木市)の出身者なのだ。功罪、相半ばする2人である。
 津賀一宏が、パナソニック社長に就いたのは2012年6月。韓国、台湾など海外勢の追い上げで11年度から2期連続で7000億円を超す最終赤字を出した、というタイミングだった。
 このため津賀は家電中心の経営から、自動車分野や住宅関連事業を柱とする企業向けビジネスに大きくカジを切った。「普通の会社ではない、まさに危機だ」と檄を飛ばし、構造改革に邁進した。しかし就任9年。21年3月期決算では四半世紀ぶりに売上高7兆円を割り込んだ。内向き志向の強い「伏魔殿組織」の病弊を、津賀は結局、打ち破れなかった。
 津賀は、茨木高校―大阪大基礎工学部卒で、1979年に松下電器産業(現パナソニック)に入社した。21年6月に会長に就き、後任の社長には楠見雄規(私立東大寺学園高校―京都大工学部大学院卒)が就任した。
 
 津賀より1歳年下なのが、21年4月に東芝の社長を辞任した車谷暢昭(のぶあき)(茨木高校―東京大経済学部卒)だ。1980年に旧三井銀行に入行、三井住友銀行副頭取のあと、英投資ファンドのCVCキャピタル・パートナーズ会長に就いた。
 18年4月から東芝の会長兼最高経営責任者(CEO)に就任、20年4月に社長・CEOになったが、CVCによる東芝買収提案を巡る車谷と他経営陣との対立により、車谷は突然、社長の座を退いた。後任には前々社長の綱川智(都立小石川高校・現小石川中等教育学校―東大教養学部卒)が、会長兼社長として復帰した。
 車谷は、不正会計や米国での原子力事業の失敗などに揺れる東芝の再建に取り組み、21年1月に東証1部復帰も実現させた。ただ、モノ言う株主の攻勢にさらされ身売り騒動が勃発、会社の内部と株主の双方から信頼を失っていた。
 
 さらに経済界で活躍の茨木OBでは、住友商事の社長をした加藤進、日本マイクロソフトの元CTO(最高技術責任者)・加治佐俊一、ドン・キホーテ社長の吉田直樹らがいる。
 旧制卒では、大正から昭和期に東武鉄道、営団地下鉄、東京ガス、日本航空など多くの企業でトップを務めた原邦造、日本ブラッドバンク(ミドリ十字を経て現田辺三菱製薬)を創業した内藤良一、神戸製鋼所社長をした牧冬彦、呉羽紡績社長をした植場鉄三らがいた。
 浅田勝美は、日本初のソムリエになり、国際ソムリエ連盟副会長などを務めた。経済評論家の長谷川慶太郎も旧制卒だ。
 

川端康成の後輩にジャーナリストの大宅壮一

 
「四中」だが、大阪府立の旧制中学として4番目にできた、ということではない。二中=現三国丘高校、三中=現八尾高校と同時に設立されている。なお、「一中」に相当するのは、1873(明治6)年創立の大阪府尋常中学校、現在の北野高校だ。
 茨木高校の校訓は「勤倹力行」、校風は「質実剛健」だ。
 教育目標として、(1)高い志を持ち、それを持続させる力をつける、(2)「二兎(にと)を追う」たくましさを身に付ける、(3)自主自律の精神を養う――を挙げている。
「二兎を追う」とは、「勉学に打ち込むのはもちろんのこと、部活動や生徒会活動などもしっかりやろう」という意味だ。高校の教育スローガンとしては、くだけている。たいていの高校は「文武両道」という言葉を使っている。
 略称は「茨高(いばこう)」。『天つ空見よ』で始まる校歌の歌詞には、校名、地名は全く読み込まれていない。
 普通科と文理学科がある。文理学科は2年から文科・理科に分かれ、ゼミ形式の「課題研究」も行う。
 大学進学は、当然のことながら関西志向が強い。21年度の大学入試合格者(21年4月入学)は現役、浪人合わせ、京都大29人、大阪大79人、神戸大40人で、東京大は2人だった。私立大には延べ人数で、立命館大に278人(うち進学者は29人)、同志社大に210人(うち進学者は24人)が合格した。
 
茨高の生徒、同窓生が誇らしく思っているのは、作家の川端康成が先輩であることだ。川端は大正から昭和にかけ、新感覚派の旗手として『伊豆の踊子』『雪国』など多くの小説を著し、1968(昭和43)年に日本人として初のノーベル文学賞を受賞した。その後、日本人による文学賞受賞は、大江健三郎(愛媛県立松山東高校卒、94年受賞)しか出ていない。
 3歳までに両親を亡くし、旧制茨木中の3年次に孤児となったが、そのころから川端は作家を志した。中学時代の作文『雨だれ石を穿つ』の自筆原稿が、茨木市立川端康成文学館に所蔵されている。
 17年に上京した川端は、旧制一高―東京帝大文学部英文学科へと進学した。61年には文化勲章を受章している。2014年には、婚約相手の伊藤初代に宛てた未投函の手紙が見つかった。
 
 川端より3学年下には戦後を代表するジャーナリスト、ノンフィクション作家の大宅壮一がいた。テレビを「一億総白痴化」と評したり、「男の顔は履歴書」など数々のフレーズを生み出し、毒舌の社会評論家として鳴らした。
 大宅は、70年11月に70歳で死去した。弔辞は先輩の川端が読んだ。川端は、72年4月に72歳で死去した。
 

女性理論物理学者の米沢富美子も卒業生

 
 学者・研究者として活躍している卒業生も多い。
 国際的に知られる女性の理論物理学者がいた。京大助教授、慶応大教授などを務めた米沢富美子だ。原子が結晶のようにきれいに並んでいないアモルファス(非晶質)という状態を解き明かす基礎理論を構築、世界の最先端を走った。若手の優秀な自然科学分野の女性研究者に贈られる猿橋賞など多くの賞を受賞している。
 米沢は、京大理学部に進学、山一證券勤務の夫の転勤に伴って米英などに留学、女性科学者の草分けの一人となった。ノーベル物理学賞受賞の湯川秀樹(旧制京都府立京都第一中学・現洛北高校卒)と朝永振一郎(同)の弟子でもあり、女性として初めて日本物理学会会長になった。猿橋賞を決める「女性科学者に明るい未来をの会」の会長を務め、19年1月に80歳で死去した。
 
 植物細胞学者で文化勲章を受章した桑田義備、情報処理工学の坂井利之、有機合成化学の細見彰、生物有機化学・創薬科学の木曽良明、生物分子化学の石野良純、ゲノム医科学の池川志郎、有機化学の桧山為次郎、霊長類学の中村克樹らもOBだ。
 
 文系では、仏文学者でプルーストの研究で知られる井上究一郎、財政学、公共経済学者の土居丈朗、ロシア政治の広岡正久、考古学の山中一郎、商学が専門で神戸大学学長をした福田敬太郎、会計学の石原俊彦、民法の佐久間毅、刑事訴訟法の堀江慎司、交通政策の戸崎肇、教育心理学の溝上慎一らが卒業している。
 
 政官界では、初代経済企画庁長官、通産相などを務めた高碕達之助が旧制卒だ。中華人民共和国と正式な国交がない時代の62年、日本代表として中国側代表の廖承志との間で日中の民間貿易を拡大させる覚書に調印した。両人のイニシャルを取って「LT貿易」といわれた。
 衆院議員を8期務め、郵政相(現総務相)をした井上一成、総務事務次官をした金沢薫は新制卒だ。
 

「水泳ニッポン」の基礎を築いた杉本伝の功績をたたえる記念碑

 
 文化・芸術分野では、名和晃平が気鋭の現代美術作家、柳川強谷村政樹がテレビドラマ演出家だ。落語家の桂米輔、能楽金春流太鼓の人間国宝・三島元太郎も卒業生だ。松下眞一は、数学者と作曲家という二足のわらじだった。
 文芸では、文芸春秋社長を務めた平尾隆弘、毎日新聞記者出身でノンフィクション作家の岡本嗣郎、劇作家・脚本家でチャップリンの研究を続けている大野裕之、漫画家の椎橋寛らがOBだ。児童文学作家の二反長半もいた。
 朝日放送の記者出身で現在はフリージャーナリストの石高健次は、朝日放送記者時代の1995年、北朝鮮による日本人拉致事件で初めて実行犯から犯行を認める証言を引き出した。これが、日本人拉致問題を世にあぶり出した最初のきっかけとなった。
 
 茨木高校には「日本近代水泳発祥之地」という記念碑が設置されている。明治末に母校の体育教師になり「水泳ニッポン」の基礎を築いた杉本伝(つたえ)の功績をたたえたものだ。
 1916年に生徒たちと手作業で完成させた水泳場は、日本初の学校プールで、19年に50メートルに拡張された。杉本は全生徒皆泳を唱え、クロールなど近代泳法を取り入れ、世界への道を開いた。
 有力選手が巣立った。石田恒信は24年のパリ五輪で200メートル平泳ぎに出場した。茨木中卒で初の五輪選手だった。
 高石勝男は28年のアムステルダム五輪に出場し、800メートル自由形リレーで銀メダル、100メートル自由形で銅メダルを取った。64年の東京五輪では、水泳日本代表総監督を務めた。
 入江稔夫は32年のロサンゼルス五輪100メートル背泳ぎで、銀メダルを獲得した。奥田精一郎は茨木中学5年次に水球日本代表に選出された。後年、イトマンスイミングスクール会長になり、多くの五輪選手を育てた。
 現在の水泳部は、競泳、飛び込み競技を経て水球中心のクラブになっている。
 ガンバ大阪などサッカー・Jリーグ選手として活躍した八十祐治は、引退後に弁護士になった。Jリーグ経験者で初の司法試験合格者だった。吉田宗弘は慶応大に進学し、柏レイソルなど通算15年にわたりJリーグ選手として活躍した。
 小田島(旧姓・片山)梨絵は、岡山大の大学院まで進学した。マウンテンバイクの選手となり、2008年の北京五輪と12年のロンドン五輪でクロスカントリーに出場し、いずれも20位だった。(敬称略)
(フリージャーナリスト 猪熊建夫)
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