久敬会ミニ講演会(1)
演題:「日本の空は健康か? ~東アジアスケールで見た日本の大気環境~」
講師:気象庁気象研究所研究総務官 三上正男氏(高25回)
日時:2013年9月28日(土)2時~4時
場所:久敬会館 参加者:25名
担当行事委員:辻本、田中、中西、安田(記録)
三上氏は、茨城県つくば市の気象庁気象研究所から本講演会のために来ていただきました。講演日の前日、5年に1度のIPCC(気候変動に関する政府間パネル)の報告書が採択されたばかりで、世界中の気象学者が「気候システムの温暖化については疑う余地がない」と結論付けているとのホットなニュースについても話していただいた。
参加者は、講師がスライドを用いて大気環境(PM2.5、酸性雨、光化学スモッグ、黄砂)と気候変動、予報システムなどについて説明されるのを興味深く熱心に聞いておられた。タイムリーにその後1カ月ほどの間に、IPCCの報告や中国の大気汚染(PM2.5)の状況と日本への影響について次々と新聞やテレビで多くの報道がなされた。
(当日の写真)
(講師プロフィール)
- 気象大学校卒業後、宮古島地方気象台技術課、大阪管区気象台をへて、1985年より気象研究所に在席。気象庁研究総務官及び公益社団法人日本気象学会理事。理学博士。
- 専門分野は気象学、なかでも大気境界層・黄砂・エアロゾルの研究。日中共同・日豪共同・黄砂動態解明などの研究代表。
- 中国政府より友誼賞、新彊ウイグル自治区政府より天山賞、日本気象学会より学会賞、文部科学技術大臣表彰を受賞。
- 著書: 「ここまでわかった黄砂の正体−ミクロのダストから地球が見える−」
(講演内容)
以下の文と図表はご講師からいただきました。
以下の文と図表はご講師からいただきました。
日本の空は健康か?
~東アジアスケールで見た日本の大気環境~
~東アジアスケールで見た日本の大気環境~
気象庁気象研究所研究総務官 三上正男(高校25期)
1.地球と地球の大気
(1) 地球の成り立ち
日本の大気環境の話の前に、そもそも私達が生きているこの地球の成り立ちについて、押さえておきたい。なぜなら、人がそれなりに安全に生活を営み、「日本の大気環境は?」などと考える事が出来る大前提として、私達が住んでいるのは、地球という、宇宙の中では特殊と言っても良い恵まれた環境なのだ、と言うことを再確認しておきたいのである。酸素も水も無く有害な宇宙線にさらされている宇宙空間の中で、我々が生きていけるのは、「地球」という星に守られているからである。
137億年というのが、この宇宙の年齢であるらしい。最新の宇宙論によれば、宇宙は私達がいるこの宇宙だけでは無く、数え切れないほどの異なった性質を持つ宇宙が同時に存在しており、我々が住むこの宇宙はその中の一つであると言われている。幸い私達の宇宙は、星が生まれ、生命が育まれるのに充分な余裕があるほど長期間にわたり安定に存在している。これが我々人類にとって第1の幸運であった。また、私達の太陽系は、中心にある太陽が主系列星と呼ばれる長寿命で安定した星であることが分かっている。これも地球に生命が生まれる条件としては必須であった。これが第2の幸運である。さらに、この太陽系で生まれた惑星の中でも、地球はちょうど良いあんばいの距離だけ太陽から離れているため、氷(固体)と水(液体)と水蒸気(気体)という三相の状態で水(H2O)が存在しうる。これは、太陽に近すぎるが故にH2Oが全て水蒸気となり、水蒸気の温室効果により高温の星となってしまった金星や、太陽から遠すぎるが故にH2Oが全て氷となり低温の星となってしまった火星という二つの兄弟星との決定的な相違である。これが地球にとっては第3の幸運だったと言える。さらなる幸運としては、地球の大きさが適切であったと言う事だ。小さすぎると重力が弱く大気を身にまとう事が出来ない。いっぽう、大きすぎると水素などの軽い元素を身にまとい、木星や土星のような全く性質の違った星になったであろう。
このような、信じられないような偶然と幸運が重なって、今の地球がある。地球の歴史上、過去には地球全体が数百mの氷で覆われるような事件(全球凍結)や巨大な隕石に衝突され生物がほぼ死滅してしまうような事件などが幾度もあったにもかかわらず、現在の地球が多様な生物が生息し人類がその恩恵にあずかれるような環境になったのは、まさに奇跡のような偶然の結果である。
(2)かけがえのない地球の大気環境
宇宙から地球を眺めた宇宙飛行士たちが等しく感動する事は、地球という星が宇宙の中でいかに孤独で美しいかと言うことである。私達が暮らすこの地球は、かけがえのない存在であることをこの事は告げている。しかも、この豊かな星地球の大気は、実は悲しいほどに儚げであることを是非頭の隅に入れておいて頂きたい。人間が生存可能な場所は、地上からおよそ高度6000mまでである。それより高いところでは、酸素ボンベの助けが無いと人は生きていけない。地球をサッカーボールにたとえると、生存可能な大気の厚さはいかほどか?実は、食品用ラップフィルムほどの厚さ(薄さ?)でしかないのである。このラップほどの厚さの大気を人間が汚染するとどうなるのか?結果は言うまでも無いであろう。実は、人間が存在できているというのは、こうした様々な幸運に恵まれているのだけではなく、このような儚くも危うい条件下においてのみである。以下で述べる地球及び東アジアの大気環境の話も、こうした視点から考えていただけると興味深いだろう。
2.東アジアと日本の大気環境
(1)日本の地理的条件
東アジアと日本の地図を頭の中に描いて欲しい。日本列島は、巨大なユーラシア大陸の
東岸、東アジア、に「へばりつく」ように位置している。北半球では上空の大気の流れは、西から東に流れているため(偏西風)、日本列島はユーラシア大陸東岸の風下に位置することになる。したがって、日本の大気環境は、東アジアの大気環境の影響を大きく受けることになる。
東アジア,特に大陸東岸部では、近年の経済成長に伴い、工業が大きく発展すると共に人口の増大と車の普及など消費生活の変化に伴うエネルギー消費の拡大がかつて無い規模で進みつつある.こうした経済発展に伴い、大陸東岸地域からの硫黄酸化物や窒素酸化物などのいわゆる大気汚染物質の放出も急激に増大する恐れがある.また、目をさらに風上のユーラシア大陸内陸部に向けてみると、そこにはタクラマカン砂漠やゴビ砂漠などの砂漠や半乾燥地が拡がっている.こうした地域では、厳しい冬が終わり雪が解けた後、草が繁茂し始める初夏を迎えるまでの3月から5月にかけては、頻繁に砂塵嵐が発生し、黄砂(直径数µm(マイクロメートル)の鉱物粒子)を風下の日本や太平洋北部さらには遠く北米〜欧州まで運ぶことが知られている.
(2)エアロゾル
こうして、我が国には、人為起源によるいわゆる大気汚染物質と自然起源による黄砂などの様々な物質が上空の大気の流れに乗って流れてきているのである.こうした物質は,ガス状のものもあれば、直径数nm(ナノメートル)から数十µmの液滴状ないし固体粒子状の微粒子も存在し、きわめて多様な形態をもっている.こうした微粒子を総称してエアロゾルと呼ばれている(図).エアロゾルの中でも特に直径が2.5µm以下の微小粒子状物質は、PM2.5と呼ばれ、人体に入ると呼吸器系や免疫系の障害を起こす恐れがあるとして問題視されており、日本でも2009年に「1年平均値が15μg/m³以下、かつ1日平均値が35μg/m³以下であること」という環境基準が環境省によって定められた.
(3)エアロゾルと気候
さて、日本の大気環境は、風上の大陸の影響を受けていること、さらにその中でもPM2.5と呼ばれる極小粒子状物質が健康には影響が大きいことを見てきたが、いずれもキーとなるものはエアロゾルである.少し寄り道になるが、この大気中のエアロゾルという物質が、実は人間の健康だけでは無く,地球の気候を変動させる要因の一つでもあるという別の側面も見てゆこう.
気候というのは、その時々の天気の変化や日変化季節変化などを越えた、ある広がりを持った地域の天気の平均的状態を指す概念であるが、こうした大気の平均場を決めるのは何かというと、それは地球大気のエネルギーのバランスである.大気の流れを作り出す力の源泉は、太陽からの日射エネルギーである.これは地球全体で1平方メートルあたり340ワットの熱量に相当する.このエネルギーは、地面を暖め、水を蒸発させ雲を作るとともに、大気の流れ(偏西風など)も作り出す.現在の地球が,今のような温暖な状態に保たれているのは、これに加え,大気中に二酸化炭素やオゾンなどの温室効果ガスと水蒸気が大気を適切な温度に保ってくれているためである.しかし近年では、人為起源による二酸化炭素の増大に伴う温暖化が問題視されるようになった.この人為的な温暖化の効果は、およそ2ワット弱と見積もられている(IPCC AR5報告).つまり340ワットのバランスが1〜2ワットほど正(プラス)にずれるだけで気候は大きな変化を被るのである.
実は、エアロゾルも大気のエネルギーバランスを変えることが知られている.エアロゾルは大気中に浮かんでいる微粒子なので、太陽の日射を一部反射する.これは大気を冷やす効果を持つ.またエアロゾルが核となって雲粒を作ることにより雲の生成に影響を与える.雲は白く,太陽の日射を強く反射するため、これも大気を冷やす効果を与える.エアロゾルが大気を冷やす効果がどれほどかは、それがとても複雑な過程なので現時点でも確定的な数字は出ていないが、おおよそ二酸化炭素の温暖化効果の半分ほどは相殺しているのではないかと考えられている(IPCC AR5報告).つまりエアロゾルが無いと、人為起源の温室効果ガスによる地球温暖化は,今よりもより急激であったはずである.
(4)東アジア大気環境の実態と予測
このように、エアロゾルは,人間の健康への悪影響が懸念されるだけではなく、地球温暖化をわずかでも抑える効果も考えられており、善悪双方の面を持つ物質であると考えられるのである.東アジアでは、先ほど見てきたように、人為起源と自然起源のエアロゾルが存在し、それらはしばしば大気中で混合し,複雑な形状と性質を持つと言われている.こうした東アジアの大気環境の動態をモニタリングし、その予測を行うことは、日本の大気環境の今と未来を知る上で必須の課題だと思われる.私が所属する気象研究所では、長年東アジアの大気環境やエアロゾルの動態ならびに大気環境の再現予測のための数値シミュレーションの研究を行ってきた.講演では、MASINGAR(マジンガー)と我々が呼んでいるシミュレーションモデルの結果を紹介した.これによると、ユーラシア大陸内陸部で発生した黄砂が、大陸東岸の経済発達地域の人為起源大気汚染物質と混ざり合いながら,日本上空まで輸送される様子が生々しく再現されている.こうした大気環境を再現予測する数値モデルは大気化学モデルと呼ばれており、今後日本の大気環境の予測にも活用され、PM2.5情報などにも利用されることが期待されている.
3.気候はどうなるか? −IPCC第五次報告−
さて、話を変えよう。実は昨日IPCCのWG1の第五次報告が採択された。IPCCとは、気候変動に関する政府間パネルの略称で、ほぼ5年に一度、世界中の気象学者の協力による地球温暖化に関する科学的レポート(IPCC WG1レポート)をまとめている.今回、その5つめの報告がまとめられた.今日は、ちょうど良い機会でもあるので、世界の気候は今後どうなると科学者たちは考えているかについてもご紹介したい。
(1)観測的事実
今回の報告では、これまで(第四次報告)よりも、より強い表現で、「気候システムの温暖化については疑う余地がない」と結論づけている.また、「1880~2012年において、世界平均地上気温2は0.85[0.65~1.06]℃上昇しており、最近30年の各10年間の世界平均地上気温は、1850年以降のどの10年間よりも高温である。」という観測報告がなされており、温暖化が近年加速していることが示された.また、海についての情報が今回かなり分かってきており、海洋の上部(水深0〜700m)だけでなく深層(水深3000m以下)でも水温が上昇し始めている可能性が強いことが示された.また、「過去20年にわたり、グリーンランド及び南極の氷床の質量は減少しており、氷河はほぼ世界中で縮小し続けている」事と並んで、主に温暖化による海水の熱膨張により「世界平均海面水位は1901~2010年の期間に0.19[0.17~0.21] m上昇した」が、その上昇の割合が近年増え始めていることも記載された.
このように,地球が温暖化され、その結果、雪氷圏や海洋に無視できない変化を呼び起こしていることが明らかとなっているが、その原因について,第五次報告では,前回よりもより強い表現で「人間活動が20世紀半ば以降に観測された温暖化の主な要因であった可能性が極めて高い。」と記載された.この人間活動による要因の最大の因子は,大気中二酸化炭素濃度の上昇である.
(2)気候の将来予測
では、今後はどうなるのか?これについては、スーパーコンピュータを活用した気候モデルによるシミュレーションが行われている.しかし、未来の予測になるため、未来の人間活動について,温室効果ガスによる温暖化効果(放射強制力というW/m2で表す指標を用いる)のいくつか選択可能なシナリオ(RCP2.6からRCP8.5までの4つのシナリオ)を想定して、その仮定の下でどのような未来が描けるのかを計算している.これによれば、21世紀末までの気温上昇量は、産業革命前の時点から、もっとも環境に優しい、と言うことはもっとも厳しい二酸化炭素排出量規制シナリオであるRCP2.6シナリオを除くすべての将来シナリオで、1.5℃を超える可能性が高い、と言う結果となった.もっとも排出量規制が緩いRCP8.5シナリオでは2.5〜4.8℃という大きな温暖化が見積もられている.現在、多くの研究者は温暖化が2.0℃を越えると人間社会や生態系に深刻な影響が出ると警告を発しており、今回の予測結果は、重い選択と決断を人類社会に迫っているとも考えられる.いま生きている我々は、未来を左右するであろうシナリオのうちいずれを選択するか意思決定する事が可能であるが、その結果は我々が居なくなった後の次世代や次次世代が受け止めることになるのである.冒頭で述べた奇跡の星「地球」の環境をどう引き継ぐのか?私たちに課せられた重い課題である.