元祖イケメンスイマー高石勝男

2019年08月27日(火)更新
元祖イケメンスイマー「かっちゃん」高石勝男の素顔 
秘蔵写真でたどる波乱万丈の人生

毎日新聞デジタル版(2019年8月14日)から転載させてもらいました。 https://mainichi.jp/sportsspecial/articles/20190813/k00/00m/040/012000c
https://mainichi.jp/graphs/20190810/hpj/00m/050/006000g/1
 
 現在放送中のNHKの大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~」で斎藤工が演じる「かっちゃん」こと高石勝男(中25回)さんの写真と記事です。
 
高石勝男(旧制茨木中学25回卒)
 1906(明治39)年、大阪市生まれ。淀川と神崎川にはさまれた中州に生家があり、小さいころ親に怒られると川に泳いで逃げたという。
 日本の学校で初めてプールを完成させた旧制茨木中(大阪府茨木市)に進学し、1920(大正9)年には試合でクロールを取り入れた。
 パリ五輪(1924年)では100メートルと1500メートルの自由形2種目で5位入賞。早稲田大入学後のアムステルダム五輪(1928年)では100メートル自由形で銅メダル、800メートルリレーで銀メダルを獲得した。
 終戦後、スポーツ振興のためスポーツ専門紙を構想。スポーツニッポン新聞社の創設にも関わった。1961(昭和36)年1月に日本水泳連盟会長に就任。
 東京五輪では水泳選手団の総監督を務めた。1966(昭和41)年4月、59歳で死去した。




写真①1926(大正15)年の豪州遠征に参加した高石勝男(奥山聡子さん提供)
 
 
 NHKの大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~」で斎藤工が演じる「かっちゃん」こと高石勝男。若い女性の熱い視線を集め、街を歩けば誰もが振り返る人気者だったという。ファッションリーダーでもあったイケメンスイマーだが、その素顔とは――。高石の家族や関係者から提供された300枚超の秘蔵写真を繰りながら、波乱万丈の水泳人生をたどった。【砂間裕之】
 
 
暗い時代のモテ男
 かっちゃんが選手として活躍したのは、大正から昭和初期にかけて。関東大震災や世界恐慌、満州事変など災害や戦争が相次ぎ、暗雲たれこめる時代だった。そんな時代に希望の明かりとなったのが、かっちゃんである。
 パリ、アムステルダム、ロサンゼルスの三つの五輪に連続出場し、アムステルダムではメダル二つを獲得。一躍スターの座に上り詰めた。アムステルダム五輪代表の米山弘は、後にこんなエピソードをつづった。
 
 
写真②東京五輪を控え、日本水泳連盟の会長に就任した高石勝男=1961年2月、坂口喜三撮影
 
 
 「ハワイ遠征から帰った高石さんたちはオカッパ頭にグレーのコールテン製ラッパズボンというニュースタイルで、これが当時の学生界に大いに流行し猫も杓子(しゃくし)もそのスタイルを真似(まね)したものです」(高石勝男氏追悼集「高石さんを憶う」より)
 当然女性たちにもモテモテだった。証言するのは、「前畑ガンバレ、前畑ガンバレ」の実況放送で知られるベルリン五輪(1936年)女子200メートル平泳ぎの金メダリスト、前畑秀子である。追悼集で「勝男先生の中学校、大学時代は私共女性の憧れの的であった。茨木中学校時代は丸坊ズ頭の美少年。早稲田大学に進学され、飛魚の勝ちゃんとして誰知らぬ人はなかった」とベタぼめした。
 
 イケメンかっちゃんは、遊びの達人でもあった。休みの日や練習の合間をぬって、銀座に繰り出し、銀ブラを楽しむ。酒を飲まないのに友だちに付き合ってダンスや歌に興じた。撞球(どうきゅう、ビリヤードのこと)もたしなみ、どんな遊びでもスマートにこなす「モボ」(モダンボーイ)だったようだ。「いだてん」では、マージャンを打つシーンがあったが、かっちゃんはハワイ仕込み。パイはすべて英語で呼び、教え込まれた後輩は覚えられず悲鳴をあげた。
 
 
豪傑とターザン
写真③1928(昭和3)年に来日した際、撮影されたとみられるスウェーデンのアルネ・ボルグ(奥山聡子さん提供)
 
 
 ところがさすがのモテ男も、スウェーデンの「豪傑」の奔放さにはかなわなかった。かっちゃんのライバルの一人、アルネ・ボルグである。この男、メガネをかけたインテリ風のやさ男だが、葉巻をくわえてプールに現れ、ウオッカをひっかけてから泳ぐつわものだったらしい。
 
 アムステルダム五輪直後の1928(昭和3)年秋、日本での水泳大会に招待されたが、婚約者同行でないと行かないと駄々をこね、結局2人で来日した。東京のスウェーデン公使館で結婚式を挙げることになり、日本選手代表で出席したかっちゃんは、花嫁にお祝いのキスをする役目を仰せつかり、後日「こんな困ったことはない」とこぼしていたという。ちなみにボルグの妻は、大西洋単独無着陸飛行に成功したリンドバーグ大佐のめい。豪傑ゆえのお相手だ。
 
 
写真④アムステルダム五輪後、早稲田大の高石記念プールを訪れたワイズミューラー(左)と高石勝男のツーショット(1928年、高石勝さん提供)
 
 
 忘れられないもう一人のライバルが、後に映画「ターザン」の主役となる米国のジョニー・ワイズミューラーだ。パリ、アムステルダムの2大会で計5個の金メダルを獲得し、いつもかっちゃんの前に立ちはだかった。野性味あふれる豪快な泳ぎは、密林の王者ターザンのイメージにピッタリで、無頼派の作家、坂口安吾も度肝を抜かれた。ボルグとともに来日した際、1万人の観客が見つめる招待試合の合間。1人でプールに潜ったワイズミューラーがプール中央で浮かび上がり、突然水を噴き上げた。安吾は後にその光景を随筆で発表。「ガガア!という河馬のマネ(ではないかと思うが)を再三やって見物衆をよろこばせた。当時からターザンに誰よりも適任の素質を示していた」(1950年10月、文芸春秋「安吾巷談」より)と回想した。
 
 
戦力外通告
 さて、25歳で迎えたロサンゼルス五輪では「ノンプレーイング・キャプテン」を命じられ、主将なのに競技に出られなかった。「いだてん」では、おしゃべりで破天荒な主人公、田畑政治(阿部サダヲ)に「戦力外通告」を受け、心揺れる場面も描かれた。
 当時、かっちゃんが記した帰国報告が残っている。「この度は陸戦隊の一員だっただけにゆっくり試合を見る機会を得ました」と前向きにレース分析にあたったことを強調。一方で「競技そのものについては私が書くより事実その種目を泳いだ選手が書いた方がより以上面白いだろうし、私はタッチしないことにきめたのです」と冷めた言葉で締めた。
 
 それでも仲間の信頼は絶大で、チームでは若い選手たちをうまくまとめたのだろう。アムステルダム、ロサンゼルスの平泳ぎで2大会連続の金メダルに輝いた鶴田義行は「いつも柔和で思いやりがあって、他の選手を引っ張って泳いでいました。みんなは、豊かな人間味にいつも『かっちゃん、かっちゃん』とついて行った」と振り返った。6種目中5種目を制し、100メートル背泳ぎでは表彰台を独占するなど日本が圧勝した最大の要因は、かっちゃんの希代のリーダーシップだったのかもしれない。
 
 
 
⑤「いだてん」で高石勝男を演じた斎藤工さん=和田大典撮影
 
 
地元五輪でまさかの惨敗
 かっちゃんの晩年は残念ながらツキがなかった。田畑と対立し、その確執を乗り越えて東京五輪3年前の1961(昭和36)年、日本水泳連盟会長に就く。ところが期待された地元五輪で、競泳陣は男子800メートルリレーの銅メダル一つに終わり、惨敗の責任を取って会長を退く。その1年半後の66年4月、59歳の若さで亡くなった。
 
 長男の勝さん(昨年1月死去)は「会長を引き受けたとき、実は胃潰瘍を患っており、おかゆしか食べられなかったんです。家族は心配していましたが、おやじは水泳のことで頭がいっぱいだったのでしょう。闘病中もずっと水泳の将来を考えていたと思います」と回想した。
 
 かっちゃんの考える王国復活の道筋はどんなものだったのか。五輪直後のインタビューでは「再建のために学童水泳に力を入れるべきだ」と力説。中学生以下の全国大会への出場制限など、当時のシステムは育成の連続性や裾野を広げる視点に欠けていたといい、抜本的な改善を求めた。
 
 かっちゃんは終戦後、地元の兵庫県芦屋市で「芦屋水練学校」を立ち上げ、「国民皆泳」を掲げて子供たちの水泳指導に当たった。その経験がベースになり、学童期の鍛錬から五輪選手を育てあげるシステムを構想したのだろう。今のスイミングスクールは、その延長線上にある。
 
 王国復活がかなわなかった地元五輪から56年。スイミングスクールで鍛えた頼もしい後輩たちが、「東京2020」でかっちゃんの夢に挑む。
 
◆今回紹介した高石勝男に関連する写真は、①高石の長男勝さんが保管していた写真②高石と親交のあった奥山紀捷(のりかつ)さんの長女聰子(としこ)さん(83)=兵庫県川西市=の写真③本社が撮影し保管している写真――で構成した。当時、プリントにサインをして知人に配ることが広く行われていたとみられ、同じ写真が複数存在していた。
 勝さんの写真は2冊のアルバムに張られていた。2019年8月に東京都内の自宅で取材し、写真の提供を受けた。勝さんは18年1月に亡くなった。また奥山さんからは14年1月にアルバム1冊などの提供を受けた。
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戸田大会優勝記念の写真

2019年06月19日(水)更新
戸田大会優勝記念の写真
 
 ここに一葉の写真がある。戸田大会優勝記念(大正9年茨木中プール前にて)のキャプション(説明文)が付けられている。
 この写真は1995年11月7日発行の茨木高校『百年の歩み』36ページから採ったものである。残念ながら写真の7名の人物の名前は載っていない。
 そこで、この7名の人物の名前を特定して欲しいとの依頼があった。
依頼してきたのは(公益財団法人)日本水泳連盟が発行している「月刊水泳」の連載記事「水泳ニッポンのルーツを訪ねて」を執筆している今村昌明氏。
 
『百年の歩み」』 表紙

・日本で最初の学校プールとクロール泳法

 さて、大正9年といえば西暦で1920年、令和元年(2019)の今からおよそ100年前のことだ。この時に一体何があったのかを先に紹介しておきたい。
 旧制の大阪府立茨木中学校は大正5年(1916)に初代校長、加藤逢吉の発案により、体育教諭、杉本伝の指導の元、日本で最初の学校プールを生徒たちの勤労奉仕によって作り上げた。
 全校生徒の皆泳を目指してのプール建設であったが、杉本教諭は水泳研究班を作って泳法の研究を進め、遂に入谷唯一郎が日本で最初にクロールを完成させる。他の生徒たちも入谷の真似をしてクロールをマスター。
 又、背泳も従来のカエル足からバタ足に変え、平泳ぎも潜水泳法や二掻き毎に一回呼吸するなどの改良を重ね、関西で最強とされていた神戸高商(現、神戸大の前身)と試合をして勝つ程になった。
 
・全国競泳大会(戸田大会)で優勝、日本近代水泳の始まり

 そこで、当時において最高の権威ある水泳大会とされていた東京帝国大学主催の全国競泳大会に初めて参加した。大正9年8月9日、10日のことだ。
大会の場所は伊豆半島の戸田(へだ)湾。杉本伝教諭が率いたのは四年生の吉田啓吉が最年長、次に三年生の石田恒信、二年生の入谷唯一郎と高石勝男、一年生の松上龍太郎で総勢わずか五名。
 参加チームは千葉県の安房(あわ)中学校、一高(現、東京大)、浜名湾遊泳協会、慶応義塾、神戸高商、大阪高商(現、大阪市大)岩手水泳協会に茨中を加えた八チーム。チームの人数に制限はなく、年齢制限もない。
 茨中の五人は最少人数で、当然ながら一番若い。子供たちが大のオッサン連中に挑戦したようなもの。ところがビックリ!優勝してしまったのだ。
 8月13日の国民新聞は次のように報道した。「一高、浜名等の猛者連を一蹴して十七才十六才十五才という中学の二年生位を集めてきた大阪府茨木中学が優勝したのはとんだ番狂わせであった。一高の如きは何の子供がと頑張ってみたが、競泳であるから早い者には敵わない。無念の歯?みをしながら、十日夕、直ちに帰ってしまった。」とある。茨中の水泳王国の幕開けであり、日本近代水泳の始まりであった。
 
・オリンピック選手輩出

 この時のメンバーの石田恒信、高石勝男は1924年のパリオリンピックに出場、茨中が生んだ最初のオリンピック選手である。杉本伝教諭は日本がオリンピックで水泳に参加した時の最初の水泳監督である。高石勝男は百自由形、千五百自由形、八百リレーで入賞を果たした。
 次のアムステルダムオリンピックにも杉本伝教諭は飛込みコーチとして参加。
高石勝男は百自由形で銅メダル、八百リレーで銀メダルを獲得した。
茨中生の高階富士夫も飛込みで決勝に進出。同じ茨中生の入江稔夫(としお)も百背泳で四位に入賞した。
 さらに1932年のロサンゼルスオリンピックにも杉本伝教諭は日本初の女子水泳陣の監督、又、日本初の水球チームの監督として三大会連続の参加。高石勝男も主将として三大会連続参加。早稲田大学に進学していた入江稔夫は百背泳で銀メダルを獲得した。水球チームには茨中出身の阪上安太郎もいた。
 
・戸田大会の写真

 さて、肝心の写真である。
 杉本伝教諭は前列左から二番目に和服姿でデンと構えている。コーチを務めていた中田留吉は後列右端に水着を着て立っている。
この二人は直ぐに分かったが、褌姿の五人の少年を特定する同時期の写真が一枚しかない。それも優勝旗を持つ石田恒信と入谷唯一郎の二人だけだ。
 
・優勝旗を持つ同時期の写真(左が入谷、右は石田)

 実は『茨高九十周年記念誌』等には左が石田、右が入谷となっているのだが、今村昌明氏がこれは誤りで左が入谷、右が石田だと指摘してこられたのだ。
 一時は混迷したが、最終的には昭和42年の読売新聞の記事から、左が入谷、右が石田ということが判明した。 
この事実をもとに推定した結論は今村昌明氏と一致した。即ち 
  後列左から 高石勝男、入谷唯一郎、中田留吉、
  前列左から 石田恒信、杉本伝教諭、吉田啓吉、松上龍太郎、
である。
  
 尚、これを機会に茨木高校『創立九十周年記念誌』の20ページ、及び『創立百周年記念誌―天つ空見よ』の15ページに共通の「伊豆・戸田の全国水泳大会に優勝」のキャプション(説明文)を修正させて頂きます。
「優勝旗を持つ石田恒信(3年級)」となっていますが、優勝旗を持って左にいるのが入谷唯一郎で、右の小柄な人物が石田恒信です。
 発行後三十年以上も経過して恐縮ですが、お詫びして修正させて頂きます。 
 
『創立九十周年記念誌』表紙  『創立百周年記念誌-天つ空見よ』表紙
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桑田義備(中2回)氏の文化勲章受章記念色紙

2017年03月02日(木)更新
 文化勲章を受章した久敬会員は2人いる。昭和36年に受章した川端康成(中18)氏のことはよく知られているが、京都大学名誉教授の桑田義備(くわた・よしなり)氏のことはほとんど知られていない。
 『創立90周年記念誌』P42に、桑田義備(中2)氏が染色体を描いた色紙の写真があることをご存知だろうか。


 
 この色紙は久敬会館の金庫に大切に保管されている。
 昭和37年11月3日に「染色体構造の研究」によって、桑田氏が文化勲章を受章された記念に書かれたものである。色紙の裏には「理学博士 桑田義備氏筆 昭和37年11月13日 於大徳寺内 黄梅院」とあるので、受章後、間もない頃に染筆されたことが分かるが、その経緯は、当時の「久敬会報」を調べても記述が見つからないので、残念ながら不明である。
 色紙はいかにも植物細胞学者にふさわしく、染色体が描かれたもの。
 桑田氏は明治15年10月5日生まれ。徳川義親によって設立された徳川生物学研究所の所長を大正7年に務め、その後、京都帝国大学に赴任。その業績は、各国の細胞学の著書、論文に広く引用され、高く評価されていたので、昭和28年に日本学士院賞を受賞し、昭和37年に文化勲章を受章されたのである。
 亡くなられたのは昭和61年8月13日。100歳近い長寿だった。
 桑田氏についての記録はあまり残っていないが、昭和38年2月20日発行の「久敬会報」号外で、杉本傳会長は「新入会の皆さん」と題した挨拶文の中で、文化勲章受章者の桑田氏について、次のように触れている。
《桑田さんは80歳を既に越えておられますが、「未だ研究せねばならないことが残っている」といって今でも毎日研究に明暮しておられます。》
 そして、杉本会長は、桑田氏に続いて文化勲章受章者が久敬会員から出ることを願っている。
 同じ号には何人かが「先輩よりの言葉」を新入会員に寄せているが、桑田氏も「座右銘を贈る」と題して、「私が平素大切にしております三つの言葉をおおくりします」と、次のような「座右の銘」を書かれている(個々の説明は省略)。
《一、 太虚 二、ゆっくり急げ 三、努力》
 昭和50年代には顧問を務められるなど、久敬会との関わりの深かった桑田氏のことが忘れ去られている感のあるのは残念である。
 なお、国立遺伝学研究所(三島市)が、平成28年12月27日の「開運! なんでも鑑定団」に出品した、チャールズ・ダーウインの『種の起源』の初版版がなんと750万円の高額評価だったが、これは桑田氏が若手研究者のために寄贈されたものだという。
 

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川端康成逝去時の新聞記事の事実  ~ 花束は用意されていた ~

2016年12月27日(火)更新
 川端康成(中18回)が亡くなった翌日、「以文会友」碑に花束をささげる女子生徒3人の写真と記事が「毎日新聞」(昭和47年4月17日夕刊)に掲載されました。このたび、その時のお一人から、以下のような貴重な回想をいただきました。

 茨木高校の偉大な先輩である川端康成氏が亡くなられた昭和47年4月16日、ノーベル文学賞受賞の記念に建てられた「以文会友」の川端文学碑に在校生が花束をささげる一枚の写真が翌日の「毎日新聞」に掲載されました。


 新聞記事には、「悲しみにつつまれた母校で生徒会が花束を捧げた」と記されています。
 しかし、実際のところは、いつも通りに友人とおしゃべりしながら登校し、茨高の正門にさしかかった時に、花束を用意した新聞社の方に急に呼び止められ、突然のことで何もわからないまま、友人2人と一緒に文学碑に花束を捧げることになりました。

 3人共新聞記事とは違い生徒会ではありませんでしたが、今となっては茨高時代のなつかしい思い出の写真となりました。(高25回 FM)
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『會報』の複製を寄贈していただきました

2016年11月10日(木)更新

 「久敬会報」70号でお伝えしたように、川端康成研究者の尚絅大学の宮﨑尚子先生は、学校の資料室にはない大正初年の『會報』第33・34・35・37号を古書店で探し出され大学で保管されています。
 宮﨑先生は度々久敬会館や学校の資料室で川端康成在学時の資料を調査されていますが、平成28年11月1・2日、調査のために来校された時に、その複製本をご持参され、寄贈していただきました。
 表紙の字は手書きです。尚絅大学の学生さんの手によるもので、立派な複製本が出来たことを喜んでいます。
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第7回は【著名な卒業生(大宅壮一・米沢富美子)】

2016年10月04日(火)更新

 記念展示「資料でつづる茨木高校120年の歩み」が久敬会館で

 第7回は【著名な卒業生(大宅壮一・米沢富美子)を紹介します

『展示風景』


 

大宅壮一

米沢富美子

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第6回は【著名な卒業生(高碕達之助・川端康成)】

2016年06月07日(火)更新
記念展示「資料でつづる茨木高校120年の歩み」が久敬会館で

第6回は【著名な卒業生(高碕達之助・川端康成)】を紹介します

1 高碕達之助 2 川端康成
3 高碕と川端
【展示風景】

 

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第5回は【伝統ある行事】

2016年03月22日(火)更新
記念展示「資料でつづる茨木高校120年の歩み」
第5回は【伝統ある行事】を紹介します

【展示風景】 【解説パネル】

 

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第4回は【思い出の旧校舎】

2016年01月22日(金)更新
記念展示「資料でつづる茨木高校120年の歩み」
第4回は【思い出の旧校舎】を紹介します
 
【展示風景】 【解説パネル】

 

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第3回は【歴史概観(昭和戦後期・平成期)】

2015年12月09日(水)更新
記念展示「資料でつづる茨木高校120年の歩み」が久敬会館で
 第3回は【歴史概観(昭和戦後期・平成期)】を紹介します

 
『昭和戦後期』
『平成期』
【展示風景】

 

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第2回 歴史外観(明治・大正・昭和戦前期)

2015年11月16日(月)更新
 記念展示「資料でつづる茨木高校120年の歩み」
 2回目は【歴史概観(明治・大正・昭和戦前期)】を紹介します。


【展示風景】
『明治期』
『昭和戦前期・大正期』
 

【解説パネル】
『明治期・歴史概観』
『昭和戦前期・大正期』

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第1回「展示風景」と「茨木高校120年年表」

2015年11月10日(火)更新
 記念展示「資料でつづる茨木高校120年の歩み」が久敬会館で平成27年10月13日~10月24まで開催されました。
 この記念展示を、久敬会ホームページで、数回のシリーズで紹介します。

 第1回は【展示風景】と【茨木高校年表】を紹介します。

 次の01~14の項目をクリックすると大きな画像をご覧になれます。
 また、スライドショーででもご覧になれます。ゆっくりとご覧ください。
  次回は「歴史概観コーナー」の詳細を紹介する予定です。

展示風景
gallery
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