当日は、 祝賀会に先立って、 「白寿を迎えて-私の歩んだ道」と題して、 約1時間の講演があり、 村上陽太郎氏は、 自らの歩んだ道を語られたが、 その中で、茨木中学校での体験が人間形成に大きく寄与した、 と熱く語られた。
冊子にまとめられた、14章で構成された講演録を読むと、氏のこれまでの活躍の様子がよく分かるが、その中から、主に茨木中学校に関係する箇所を抜き出しておきたい。
1) 序に代えて
……昭和の初めに、田舎の小学校から、町の旧制中学校に進学した。……毎日、中学校まで、片道5㎞程の田舎道を数人の上級生と歩いて通学した。……往復には、歩きながら、予習や復習が出来て、都合がよかった。……
……中学校の先生方は、皆人格、識見共に立派な方で、真剣に躾教育をして下さった。
尾池虎三郎先生には、特にお世話になった。……
2) 感謝したい茨木中学校で受けた教育
北風の吹く寒い校庭を白い体操服で裸足で我々の先頭を走っておられる(杉本傳)先生の姿が浮かんでくる。 …… 小学校時代弱かった身体も 毎日5㎞位の道を徒歩通学していたお陰で丈夫になり、健脚にもなっていたので、先生には随分目をかけていただいた。…… ……尾池虎三郎、西田栄一両先生の英語の初期教育は誠に正しい方法であったと、外国語が大きい役割を果たす我々の仕事には今でも役立っていることを有難いと思っている。……
……当時の(茨木)中学の恩師の方々は人間的にも立派な方々であり、生徒の教育・訓育に情熱を傾けて努力して下さった。 人間人格の形成の一番重要な時期に よい恩師、 よい友人に恵まれたことを改めて心から感謝したい
3) 第三高等学校の想い出
私が三高の理科甲類に入学したのは1939年(昭和14年)の春である。……理甲という所は英文学のような講義が多かった。……英語の読解力がその後の援けになっている。……
4) 京都大学冶金学科に進学と恩師との出遭いと研究生活 …… 当時は既に戦争の気配が濃厚であった。 大学の先輩から、 金属材料が、 航空機や兵器の製造に極めて重要である事を聞き、冶金学科の内容も教えてもらい、合金の開発のような仕事をやりたいとの気持ちが強く、(三高の)隣の京都大学の冶金科に進学を決めていた。この進学は私の人生を大きく支配することになった。……
5) 終わりに
100年に近い年月を私が歩んできた道をその時々の折り目を回顧した。先ず、中学時代に足で歩いた道は、やさしい、幸福な道であった。よい学業成績と健康な長寿の元を与えて呉れた。……
……多くの優れた研究者の協力を得て、金属学の分野で、業績を挙げる事が出来、多数の栄誉と賞を頂くことが出来た。私の歩んできた道は、多少の紆余曲折はあったが、幸福な道であったと言えるだろう。
【村上陽太郎氏の略歴】
1942年(昭和17年)京都帝国大学工学部冶金学科卒業
1944年(昭和19年)京都帝国大学工学部助教授
1953年(昭和28年)京都大学工学部教授
1981年(昭和56年)京都大学名誉教授
【主な受賞歴】
1991年(平成3年) 第35回日本金属学会賞(学会の最高賞)
1998年(平成10年)第1回軽金属学会賞(学会の最高賞)
村上陽太郎氏は、「久敬会報」の「天つ空見よ」に、中36回の同窓会である「十和会」の記事を、平成24年まで計27回寄稿されていた方でもある。
……中学校の先生方は、皆人格、識見共に立派な方で、真剣に躾教育をして下さった。
尾池虎三郎先生には、特にお世話になった。……
2) 感謝したい茨木中学校で受けた教育
北風の吹く寒い校庭を白い体操服で裸足で我々の先頭を走っておられる(杉本傳)先生の姿が浮かんでくる。 …… 小学校時代弱かった身体も 毎日5㎞位の道を徒歩通学していたお陰で丈夫になり、健脚にもなっていたので、先生には随分目をかけていただいた。…… ……尾池虎三郎、西田栄一両先生の英語の初期教育は誠に正しい方法であったと、外国語が大きい役割を果たす我々の仕事には今でも役立っていることを有難いと思っている。……
……当時の(茨木)中学の恩師の方々は人間的にも立派な方々であり、生徒の教育・訓育に情熱を傾けて努力して下さった。 人間人格の形成の一番重要な時期に よい恩師、 よい友人に恵まれたことを改めて心から感謝したい
3) 第三高等学校の想い出
私が三高の理科甲類に入学したのは1939年(昭和14年)の春である。……理甲という所は英文学のような講義が多かった。……英語の読解力がその後の援けになっている。……
4) 京都大学冶金学科に進学と恩師との出遭いと研究生活 …… 当時は既に戦争の気配が濃厚であった。 大学の先輩から、 金属材料が、 航空機や兵器の製造に極めて重要である事を聞き、冶金学科の内容も教えてもらい、合金の開発のような仕事をやりたいとの気持ちが強く、(三高の)隣の京都大学の冶金科に進学を決めていた。この進学は私の人生を大きく支配することになった。……
5) 終わりに
100年に近い年月を私が歩んできた道をその時々の折り目を回顧した。先ず、中学時代に足で歩いた道は、やさしい、幸福な道であった。よい学業成績と健康な長寿の元を与えて呉れた。……
……多くの優れた研究者の協力を得て、金属学の分野で、業績を挙げる事が出来、多数の栄誉と賞を頂くことが出来た。私の歩んできた道は、多少の紆余曲折はあったが、幸福な道であったと言えるだろう。
【村上陽太郎氏の略歴】
1942年(昭和17年)京都帝国大学工学部冶金学科卒業
1944年(昭和19年)京都帝国大学工学部助教授
1953年(昭和28年)京都大学工学部教授
1981年(昭和56年)京都大学名誉教授
【主な受賞歴】
1991年(平成3年) 第35回日本金属学会賞(学会の最高賞)
1998年(平成10年)第1回軽金属学会賞(学会の最高賞)
村上陽太郎氏は、「久敬会報」の「天つ空見よ」に、中36回の同窓会である「十和会」の記事を、平成24年まで計27回寄稿されていた方でもある。
(2016年7月12日 記)