大宅壮一文庫開館50周年

2021年10月11日(月)更新
大宅壮一文庫開館50周年 文化のとりで 雑誌の宝庫
 2020年11月19日の東京新聞に掲載された記事
 
 「口コミ」などの造語で知られた評論家の大宅壮一さん=写真=が亡くなって50年。その蔵書をもとにオープンした国内初の雑誌図書館「大宅壮一文庫」(同、世田谷区)は来年、開館50周年を迎える。在野精神に満ち、軽妙で鋭い社会評論を展開した大宅さんは「雑草のように」という言葉を好んだという。文庫も運営難に直面しつつも雑草のようにたくましく、庶民の生活文化を発信し続けている。
  
 京王線八幡山駅から徒歩約十分。大宅文庫の書庫には、木製の書棚に雑誌がギッシリ。たわんだ棚板に、年季を感じる。
 戦後、時代の風潮を鮮やかに裁断する社会や人物評論を展開し「実録・天皇記」「『無思想人』宣言」などの著作を残した大宅さんは、一九七〇年十一月二十二日、七十歳で死去した。大宅さんの三女で、文庫理事長を務めるジャーナリストの大宅映子さん(79)は「肩書だの名誉など不要、“雑草”のように、が彼の好きな言葉だった」と追想する。生前から自らの蔵書も「雑草文庫」と呼び、後輩ジャーナリストらに貸し出していたという。
 その蔵書をもとに、文庫は大宅さんが亡くなった翌年、出版など各界の支援を受けてオープン。七四年に「田中角栄研究」を雑誌「文芸春秋」に発表した立花隆さんが執筆に活用したと話したことから、広く知られるようになった。
 発売される雑誌を今も集め続け、現在は明治期からの雑誌約一万二千六百誌、約八十万冊を所蔵する。「昭和三十三、四年ごろは週刊誌の創刊ブーム。今の上皇后の美智子さまご成婚の時に、わーっと出たんです」と同文庫事務局次長の鴨志田浩さん(53)は説明する。
 
 昭和三十年に東京新聞社(東京新聞を発行する中日新聞東京本社の前身)が発行した「週刊東京」創刊号もある。表紙には女優の若尾文子さんがほほ笑み、故・杉浦幸雄さんの漫画「東京チャキチャキ娘」が載っている。ページを開くと紙は変色し、もろくなっていた。
 所蔵雑誌は、端末で人物や件名からキーワード検索して雑誌や記事を探し出し、閲覧室で読めてコピーもできる。スタッフが日々作成してきた索引は約七百万件。マスコミ関係者の利用が多く、著名人のインタビュー準備の資料を集めに来たり、大事件の発生時に関連する記事を調べに来たり。樹木希林さんの没後に出たベストセラー「一切なりゆき?樹木希林のことば」(文春新書)も、編集者が約三十年分の樹木さんの記事を引っ張りだしたのが刊行のきっかけという。
 
 検索ランキングからは世相も見える。昨一年間の人名検索のトップは、米大統領としての発言や政策が物議をかもした「トランプ氏」で、二位が「安倍晋三」前首相。デビュー二十周年を迎えた人気グループ「嵐」もベスト10入りした。
 だが、スマホなどで簡単に情報が入手できる今、来館者数は減少して運営状況は悪化。二〇〇九年度から八年連続赤字になるなど、苦境が続く。このため昨夏、支援組織「パトロネージュ」を発足させた。寄付をして会員になることで文庫を支える組織で、今年七月で会員は十五法人、百九十四人に。集まった会費は一千万円を超えた。
 
 発足二年目の今年は支援の輪を企業や団体に呼びかけ広げる予定だったが、コロナで厳しい状況に。それでも「新たな五十年に向け、皆さんに支えられながらやっていきたい」と、事務局長の富田明生さん(72)は前を向いた。
<大宅壮一文庫> 入館料500円で15冊まで、追加料金で1日105冊まで閲覧可能。コピーは1枚モノクロ85円、カラー145円。
 文・岩岡千景/写真・坂本亜由理
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東京新聞・川端康成直筆の弔辞見つかる

2021年10月11日(月)更新
川端康成直筆の弔辞見つかる
「やさしさと気弱さと…」親友・大宅壮一への思いとは
2021年5月16日 06時00分 東京新聞
 
 ノーベル賞作家の川端康成が1970年11月に、評論家大宅壮一(おおやそういち)の葬儀で読んだ直筆の弔辞の原本が、東京都世田谷区の雑誌図書館「大宅壮一文庫」で見つかった。和紙に毛筆でしたためた文章には、青春時代から続いた厚い友情がうかがえる。文庫の担当者は「日本文化に影響を与えた2人の間柄が分かる貴重な資料」として、今年の創立50周年を機に公開の準備を進めている。(山下葉月)
 
 
 
 1090文字から成る弔辞は縦36センチ、横230センチ。複製が埼玉県越生町(おごせまち)の文庫分館にあるが、原本の所在は不明だった。文庫事務局長の富田明生さんが2019年に施設の書斎を整理中、ふろしきに包まれた桐きりの箱を見つけ、中から表装された巻物が出てきたという。
 70歳で亡くなった大宅の葬儀は、港区南青山の青山葬儀所で営まれた。葬儀で川端は和紙を広げて弔辞を読み、表装は後日にされた。
 2人は大阪府立茨木中学校(現在の茨木高校)の同窓生に当たり、川端より1つ年下の大宅は2年遅れで入学している。2人の出会いは、東京帝国大に進学してからの同人誌「新思潮」での活動だったとされる。中学時代から少年雑誌の読者投稿の常連だった2人は意気投合し、互いに家庭を築いた後も深くつきあった。一時期は東京・阿佐谷の二間長屋で隣り合って暮らしていた。
 川端は雑誌「新潮」(1951年第1号)で大宅について書いている。東京帝大卒業のとき、唯一、祝ってくれたのが大宅だった。どこかで手に入れた鶏をつぶして食べさせてくれた。「彼はいつまでも私の泣きつきどころの一つ、無茶な願ひの持ち込みどころ」と述懐している。
 
 大宅も、新潮の同年第11号で川端について「彼となら、何時間でも話してをれるし、叉またちつとも口をきかずに一日暮らすこともできる。とにかく不思議な存在である」と記した。
 川端は弔辞で「四、五十年前に恩義を受けながらなんら酬(むく)いる事のなかった者」と自らを省み、「今は故人大宅君を哀惜追慕悲悼する念、列席のうちの多くの人よりも深痛が切ではないかと、ここに立って省みて恥じる」と、誰よりも大宅の死を悲しんでいると呼び掛けた。
 「あの野性縦横闊歩(かっぽ)の裏にやさしさとこまやかさと気弱さとさびしさとはにかみとをも備えた大宅君」と、長年の親友だからこそ知る人間性、性格にも触れている。
 2人は茨木高の創立70周年の講演会に出席するなど、しばしば行動を共にした。富田さんは「弔辞の心情あふれる内容は、社会を動かし続けてきた2人の古くからの交流を裏付ける」と話す。
 
◆猪瀬直樹さん「孤独な川端、心を許せた」
 作家で元東京都知事の猪瀬直樹さんに弔辞について聞いた。猪瀬さんは、著作に大宅壮一と川端康成を描いた小説「マガジン青春譜」がある。
 「マスコミの帝王」として交友関係が広かった大宅への弔辞を、あえて川端がささげたのは、2人が世に出るまでの辛酸をなめた青春時代を共有しているからだ。
 20代の2人が隣家で暮らしていたのはわずか1年足らずだが、妻同士も互いに勝手口を行ったり来たりする仲となり、ある種の家族同然の関係になった。弔辞の中の「四、五十年前の恩義」とは、孤独だった川端が、大宅に心を許せたことだろう。
 表向きには「野性縦横闊歩」とみられていた大宅だったが、「やさしさとこまやかさと気弱さとさびしさとはにかみとをも備えた」としてるのは、大宅の本当の姿を、川端は誰よりもよく知っていて感謝の気持ちを伝えたかったと言える。(談)
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加藤逢吉(本校初代校長)と正岡子規との一夜の出会い

2021年09月17日(金)更新
加藤逢吉(本校初代校長)と正岡子規との一夜の出会い  

 久敬会広報委員長の岩井英雅さん(高20回)が正岡子規の随筆『筆まか勢 第一編』から見つけられた記事と初代校長加藤逢吉の紹介です。
 岩井さんは、茨木高校在職中は母校の百年の史料整理や『茨木高校百年史』編纂に尽力され、近年は「久敬会報」発行の中心になっておられます。
 
 明治22年(1889)24日、一高生だった正岡子規は郷里の松山へ帰省するために、従弟の藤野古白と新橋停車場を出発した。京都で三十三間堂を見学した後、汽車で神戸まで行き、八幡丸に乗船したのは27日。
 その上等室にたまたま乗り合わせたのが、当時、滋賀の師範学校に勤めていた加藤逢吉(本校初代校長)だった。
 
 子規の日記風の随筆「筆まか勢 第一編」には、同室の教師について、次のように記されている。

 《二人は年も若く一人ハ慶應義塾の教師、他ハ三重の師範学校の教師也 (中略)後には加藤逢吉といふ人も来りぬ、此人は滋賀の師範学校の教師にて 三重の教師石井某とは同窓の旧友なりしかば 書生間の出来事を物語られたり 二人とも もと東京大学に居りし人故 其話は多少余と関係もあり 殊に其時分のしくじり話しや朋友の評判などは 今日は皆堂々たる学士諸子の履歴に関する故
 覚えず笑壺に入りたり、斯くて三十時間許りの航海も長きとも知らで三津港に着けり 帰郷後ハ時候の温暖(東京に比して)なるが為に再生の心地し 七年ぶりに故郷の雑煮を味へり》
 加藤逢吉だけがフルネームではっきりと書かれているのが大変興味深い。よほど印象深かったのだろうか。加藤逢吉は安政4年(1857)生まれだから、この時32歳。子規はまだ22歳という若さだった。
 
 それから2年後に加藤逢吉は歴史的な事件に遭遇することになる。日本を親善訪問中のロシアの皇太子ニコライが、琵琶湖遊覧の帰途、巡査津田三蔵にサーベルで斬りつけられて傷を負うという、日本中を震撼させ大津事件である。事件は明治24年(1981)5月11日のことだった。幸いにもニコライ皇太子は軽傷で、襲われた場所を記念のために写真撮影させたい、という意向があり、15日にロシアの海軍士官らが赴くことになった。その電報を受けた滋賀県知事が英語の通訳兼案内人として依頼したのが、滋賀の師範学校の教師をしていた加藤逢吉ともう一人の教師だった。加藤逢吉は物理の教師だったが、英語も堪能だったのだろう。
 
 加藤逢吉が本校初代校長となるのは、それから数年後の明治28年(1895)のことである。ちなみにこの年、夏目漱石は子規の母校である松山中学に赴任し、そこでの経験が後に小説『坊つちやん』に結実する。また、〈柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺〉という有名な句を子規が詠んだのが、この明治28年秋のことだった。
 ご遺族から寄贈を受けた、明治31年(1898)から昭和14年(1939)までの加藤逢吉の日記を久敬会館に保管してある。子規が亡くなるのは明治35年(1902)9月18日。日記に何か書かれているかもしれない、と思って確かめたが、特に記述はなかった。
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高碕達之助記念講演会のご案内

2020年02月04日(火)更新
◆第三回 高碕達之助 記念講演会のご案内◆
 
高碕達之助(中4回)を語り継ぐ記念講演会をご案内します。
 
主催:高碕達之助に学ぶ会
    NPO法人高槻名誉市民を語り継ぐ会
演題:『満州引揚の国士~同胞日本人100万人を助けた高碕翁~』
講演:古海 建一 氏
日時:2020年2月24日(月・祝)14:00~
場所:高槻現代劇場305号
講演内容:
 今回は高碕達之助の多くの業績のうち、満州重工業開発総裁として1945年8月8日のソ連対日宣戦布告の事態に遭遇、終戦後も満州に残り日本人会会長として帰国できないでいる同胞100万人の帰還のため、ソ連、中国共産党や国民党政府と交渉を行い、多くの同胞を救ったことが中心とのことです。

2月2日の読売新聞朝刊にも大きく取り上げられています。
  • なお、一昨年11月に実施した久敬会イベント「高碕記念館見学」の報告は、このホームページの「久敬会行事報告」からご覧いただけます。
    https://www.kyuukeikai.jp/?p=450
  • また、「茨木高校120周年記念展示~資料でつづる茨木高校120年の歩み~」(2015年10月13日~24日実施)の著名な卒業生コーナーで高碕達之助(中4回)を紹介しました。このホームページの「周年記念行事」からご覧いただけます。
    https://www.kyuukeikai.jp/?p=245#more-245
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【卒業生訪問】夢を追い続ける(太田 健さん)

2019年10月10日(木)更新














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藤井泰則著『杉本伝(ツタエ)』紹介

2019年09月18日(水)更新
藤井泰則著『杉本伝(ツタエ)
 ~水泳日本生みの親、高石勝男とオリンピックへ~』の紹介

 2019年7月に刊行された『杉本伝(ツタエ) 水泳日本生みの親、高石勝男とオリンピックへ』は、日本近代水泳の礎を築いた、旧制茨木中学校の杉本伝教諭と茨木中学校のプールの物語です。著者は茨木高校久敬会の事務局次長である藤井泰則(高17回)氏。
 
 藤井氏は親しみを込めて「伝(でん)さん」と呼び、物語を綴ります。
 本書は「序章 水泳日本、世界の覇王となる」という印象深いシーンから書き出されます。1932(昭和7)年7月30日から16日間、アメリカのロサンゼルスで開催された第10回オリンピックの水泳競技で、男子水泳は競泳6種目のすべてでメダルを獲得し、中でも圧巻は100メートル背泳の表彰式でした。

《なんと三本の日の丸が高々と翻(ひるがえ)ったのだ。快晴のロサンゼルスの空に美しく映える日章旗は、見る日本人の心をうち震わせた。》

 そして、日本では号外が配られます。

《8月14日、東京朝日新聞は「水泳日本・世界の覇王となる」と大きな見出しをつけ、号外を配った。》

 もし、来年の2020年の東京オリンピックで、このような光景が出現したら、きっと日本中は歓喜の渦に包まれるに違いありません。まして、その中に、茨木高校関係者がいたとしたら、茨木高校や久敬会にとって大きな誇りになるでしょう。実は、ロサンゼルスで揚がった3本の日章旗のうち、一本は銀メダルの入江稔夫(としお)(中30回)氏を讃えるものでした。
 この「世界の覇王となった水泳日本」の基礎を作ったのが、杉本伝教諭であり、茨木中学校のプールだったのです。本書の帯的な箇所に印刷された、次の言葉がすべてを物語っています。

《クロール、飛込み、水球…日本近代水泳のすべては大阪・茨木のプールから始まった。》

 著者の藤井氏は、杉本教諭の生い立ち、そして杉本教諭が主導し、4年生の川端康成も1年生の大宅壮一も作業に参加した、日本で初めての学校プールの築造、さらにはそのプールでのクロール泳法の研究や全国大会での茨中生の活躍、さらにはオリンピックでの日本人選手の活躍の様子を、残された史料を綿密に読み込み、生き生きと活写しています。よくもこれだけ調べられたものだ、と感嘆するほどの徹底ぶりです。
 本書執筆の動機は「終わりに」で語られていることに尽きます。

《執筆の動機は杉本伝氏を本にして記録にとどめたいことにあったが、NHKの大河ドラマで田畑政治を水泳の代表としていることに対する軽い反発もあったことも認めておこう。金栗四三をオリンピックの陸上の代表とすることに全く異論はないが、水泳の代表は我らの大先輩である杉本伝氏の方が余程ふさわしい。クロールを普及させたのは田畑政治では断じてない。杉本氏がクロールを研究して普及させ、高石勝男氏がクロールを完成させたのだ。》

 まさにそのとおりです。
 1939(昭和14)年に茨中を退職した「伝さん」は、戦後の1952(昭和27)年に、久敬会の初代会長に推されます。そして、1979(昭和54)年に生涯を閉じました。91歳でした。
 終章は、1985(昭和60)年の「日本近代水泳発祥之地」記念碑の除幕式の様子と、1995(平成7)年の茨高創立100周年の年に完成した屋内プールの記述で締め括られます。

《伝さんがパリオリンピックに行った時、またその後の欧米視察旅行の時、あんなにも羨(うらや)ましく思い憧(あこが)れた屋内プールが70年の時空を経て、ようやく茨高にその姿を現したのだった。》

 ここまで読んできて、読者は深い感慨と共にページを閉じることでしょう。
 本書が多くの久敬会会員や水泳の関係者に読まれることを願ってやみません。
 なお、本書は一般の書店では取り扱っていませんので、ご購読のご希望の方は、直接、通信販売のアマゾンでご購入ください。 (2019年9月 広報委員会記)
 
◆著書の一部「おわりに」  ◆著書の一部「はじめに」
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毎日新聞「わたしの母校」に茨木高校の卒業生が連載されます

2018年10月24日(水)更新
毎日新聞「わたしの母校」に茨木高校の卒業生が連載されます
 
11月~12月の毎週火曜日に連載されます。
毎回1名の方を取材した記事が掲載され、7~8人の卒業生が登場される予定です。

クリックすると拡大します。
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監督・脚本が久敬会員の映画紹介

2018年05月14日(月)更新

監督・脚本が久敬会員の映画紹介

 監督・脚本が久敬会員の映画
「返還交渉人 いつか、沖縄を取り戻す」の紹介

6月30日から全国の単館劇場で公開されます  

 「返還交渉人 いつか、沖縄を取り戻す」は、2017年8月12日にNHKのBSで放送されたドラマを再編集して、100分の映画版として上映するもので、6月30日から東京ポレポレ東中野、7月7日から沖縄桜坂劇場他、順次全国の単館劇場で公開されます(大阪での公開時期は今のところ未定)
 
 監督はNHKのディレクターの柳川強(高35回)氏、脚本は西岡琢也(高27回)氏で、久敬会員が監督と脚本家としてコンビを組んで映画作品を作り上げるのは、おそらく初めてのことでしょうから、久敬会員の皆様にお知らせいたします。
 
 映画は米軍の「理不尽な占領」と闘い続けた実在の外交官である、千葉一夫の知られざる真実の物語を描きます。千葉一夫は対米交渉、対沖縄折衝の両面で大きな役割を担い、「鬼の千葉なくして沖縄返還なし」と称された、伝説の外交官です。

 主人公の千葉一夫を演じるのは井浦新、そしてその妻の惠は戸田菜穂。井浦と戸田は初共演とは思えないほど息が合い、激しい返還交渉に挑んだ男とそれを支える妻が育んだ夫婦愛を熱演しました。尾美としのり、佐野史郎、石橋蓮司、そして先頃惜しまれて亡くなった大杉漣などのベテラン俳優陣が、物語に重厚感とリアリティを付与していますから、見応えのある、骨太の「社会派エンターティメント映画」になっているそうです。
 
機会があれば、是非ご観賞ください。
  ◆http://cinefil.tokyo/_ct/17159255
  (ネット上でリリース発表となっています↑)

配給・宣伝の問い合わせ先は以下のとおり。
太秦株式会社 配給:小林三四郎 宣伝:岩本玲、今村花
〒151-0051 東京都渋谷区千駄ヶ谷 5-16-10 代々木エアハイツ 301
 tel:03-5367-6073 fax:03-6903-6970 mail : info@uzumasa-film.com

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「高碕達之助に学ぶ会」発足記念講演会参加記

2018年02月27日(火)更新
「高碕達之助に学ぶ会」発足記念講演会参加記
 
 2018年2月24日(土)に「高碕達之助に学ぶ会」発足記念講演会が、高槻市生涯学習センターで開催されました。
 以下はその参加記です。
 講演会が始まる2時前には、300名収容の多目的ホールはほぼ満席で、高碕達之助(中4回)に寄せる市民の関心の高さに驚きました。
 私は中村事務局長に確保していただいた席に座りましたが、岩橋昭元校長をはじめ、何人かの久敬会関係の方もお越しでした。
 基調講演は、元朝日新聞記者で『日中をひらいた男 高碕達之助』(この本についてはすでに紹介済み)の著者である牧村健一郎氏。牧村氏は企業家であり、偉大な政治家であった高碕達之助の事跡を5つのキーワード【現場主義・現実主義・ウインウイン・チャレンジ精神・人間力】で、分かりやすく、かつ熱っぽく語られました。
 高碕達之助については、おおよそのことは知っているつもりでしたが、改めてその偉大さと人間的魅力を再認識した講演内容でした。
 それを受けたパネルディスカッションでは、久敬会前会長の大木令司(高3回)氏と旧職員の北村正信氏がパネラーの一員として、高碕達之助の人となりについて興味深いエピソードを交えながら話され、私も聴衆の一員として聴き入っていました。
 大木・北村氏を含め、どのパネラーも語りたいことがいっぱいあるらしく、どなたも持ち時間をオーバー。その後、会場から活発な意見や質問があり、パネラーが答えるたびに大きな拍手が起こりました。
 最後のまとめとして、コーディネーターの島津淳子氏が、高碕達之助のことをもっと世間に知ってもらうために、NHKの連続テレビ小説でぜひ取り上げてほしい、と発言されると、会場は万雷の拍手。
 気づけば5時近くになっていました。   
広報委員長 岩井 英雅(高20)記
 
高碕達之助(中4回)のプロフィール
  • 1885年(明治18)高槻市柱本に生まれる
  • 1917年(大正6) 東洋製罐設立
  • 1953年(昭和28)電源開発初代総裁としてダムで水没する荘川桜を救う
  • 1954年(昭和29)69歳で鳩山一郎内閣の国務大臣に就任
  • 1962年(昭和37)中国とLT貿易を結ぶ
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高碕達之助に学ぶ会発足記念講演会紹介

2018年02月19日(月)更新
「高碕達之助に学ぶ会」発足記念講演会を紹介します。
  • とき  2月24日(土)14:00(高碕翁命日)。
  • ところ 高槻市総合センター2F(入場無料)。
  • 主催  「高碕達之助に学ぶ会」
大木令司氏(元久敬会会長・高3回)がパネルディスカッションに参加されます。
※画像クリックで拡大→

 高碕達之助氏(中4回)は、120周年記念展示「資料でつづる120年の歩み」のなかの「著名な卒業生」コーナーで紹介されました。(2015年秋、久敬会館で開催)
久敬会ホームページの「周年記念行事」からご覧いただけます。
 
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