【茨木高校】華麗なる人脈!(A4×4)

2021年09月27日(月)更新
フリージャーナリストの猪熊建夫さんがDiamond Onlineに掲載されている記事
【茨木高校】華麗なる卒業生人脈!川端康成、大宅壮一、パナソニック前社長、東芝前社長…
 
 ノーベル文学賞作家の川端康成の母校である。大阪市と京都市の間にある茨木市は典型的なベッドタウンだが、大阪府第四尋常中学校(その後茨木中)として1895(明治28)年に創立された伝統校で、企業経営者、学者、文化人などをたくさん送り出している。
 
まずは、「前社長」の2人を紹介しよう。
 
 電機業界の名門であるパナソニックと東芝の社長を務めた人物が、茨木高校(大阪府立・大阪府茨木市)の出身者なのだ。功罪、相半ばする2人である。
 津賀一宏が、パナソニック社長に就いたのは2012年6月。韓国、台湾など海外勢の追い上げで11年度から2期連続で7000億円を超す最終赤字を出した、というタイミングだった。
 このため津賀は家電中心の経営から、自動車分野や住宅関連事業を柱とする企業向けビジネスに大きくカジを切った。「普通の会社ではない、まさに危機だ」と檄を飛ばし、構造改革に邁進した。しかし就任9年。21年3月期決算では四半世紀ぶりに売上高7兆円を割り込んだ。内向き志向の強い「伏魔殿組織」の病弊を、津賀は結局、打ち破れなかった。
 津賀は、茨木高校―大阪大基礎工学部卒で、1979年に松下電器産業(現パナソニック)に入社した。21年6月に会長に就き、後任の社長には楠見雄規(私立東大寺学園高校―京都大工学部大学院卒)が就任した。
 
 津賀より1歳年下なのが、21年4月に東芝の社長を辞任した車谷暢昭(のぶあき)(茨木高校―東京大経済学部卒)だ。1980年に旧三井銀行に入行、三井住友銀行副頭取のあと、英投資ファンドのCVCキャピタル・パートナーズ会長に就いた。
 18年4月から東芝の会長兼最高経営責任者(CEO)に就任、20年4月に社長・CEOになったが、CVCによる東芝買収提案を巡る車谷と他経営陣との対立により、車谷は突然、社長の座を退いた。後任には前々社長の綱川智(都立小石川高校・現小石川中等教育学校―東大教養学部卒)が、会長兼社長として復帰した。
 車谷は、不正会計や米国での原子力事業の失敗などに揺れる東芝の再建に取り組み、21年1月に東証1部復帰も実現させた。ただ、モノ言う株主の攻勢にさらされ身売り騒動が勃発、会社の内部と株主の双方から信頼を失っていた。
 
 さらに経済界で活躍の茨木OBでは、住友商事の社長をした加藤進、日本マイクロソフトの元CTO(最高技術責任者)・加治佐俊一、ドン・キホーテ社長の吉田直樹らがいる。
 旧制卒では、大正から昭和期に東武鉄道、営団地下鉄、東京ガス、日本航空など多くの企業でトップを務めた原邦造、日本ブラッドバンク(ミドリ十字を経て現田辺三菱製薬)を創業した内藤良一、神戸製鋼所社長をした牧冬彦、呉羽紡績社長をした植場鉄三らがいた。
 浅田勝美は、日本初のソムリエになり、国際ソムリエ連盟副会長などを務めた。経済評論家の長谷川慶太郎も旧制卒だ。
 
川端康成の後輩にジャーナリストの大宅壮一
 
「四中」だが、大阪府立の旧制中学として4番目にできた、ということではない。二中=現三国丘高校、三中=現八尾高校と同時に設立されている。なお、「一中」に相当するのは、1873(明治6)年創立の大阪府尋常中学校、現在の北野高校だ。
 茨木高校の校訓は「勤倹力行」、校風は「質実剛健」だ。
 教育目標として、(1)高い志を持ち、それを持続させる力をつける、(2)「二兎(にと)を追う」たくましさを身に付ける、(3)自主自律の精神を養う――を挙げている。
「二兎を追う」とは、「勉学に打ち込むのはもちろんのこと、部活動や生徒会活動などもしっかりやろう」という意味だ。高校の教育スローガンとしては、くだけている。たいていの高校は「文武両道」という言葉を使っている。
 略称は「茨高(いばこう)」。『天つ空見よ』で始まる校歌の歌詞には、校名、地名は全く読み込まれていない。
 普通科と文理学科がある。文理学科は2年から文科・理科に分かれ、ゼミ形式の「課題研究」も行う。
 大学進学は、当然のことながら関西志向が強い。21年度の大学入試合格者(21年4月入学)は現役、浪人合わせ、京都大29人、大阪大79人、神戸大40人で、東京大は2人だった。私立大には延べ人数で、立命館大に278人(うち進学者は29人)、同志社大に210人(うち進学者は24人)が合格した。
 
茨高の生徒、同窓生が誇らしく思っているのは、作家の川端康成が先輩であることだ。川端は大正から昭和にかけ、新感覚派の旗手として『伊豆の踊子』『雪国』など多くの小説を著し、1968(昭和43)年に日本人として初のノーベル文学賞を受賞した。その後、日本人による文学賞受賞は、大江健三郎(愛媛県立松山東高校卒、94年受賞)しか出ていない。
 3歳までに両親を亡くし、旧制茨木中の3年次に孤児となったが、そのころから川端は作家を志した。中学時代の作文『雨だれ石を穿つ』の自筆原稿が、茨木市立川端康成文学館に所蔵されている。
 17年に上京した川端は、旧制一高―東京帝大文学部英文学科へと進学した。61年には文化勲章を受章している。2014年には、婚約相手の伊藤初代に宛てた未投函の手紙が見つかった。
 
 川端より3学年下には戦後を代表するジャーナリスト、ノンフィクション作家の大宅壮一がいた。テレビを「一億総白痴化」と評したり、「男の顔は履歴書」など数々のフレーズを生み出し、毒舌の社会評論家として鳴らした。
 大宅は、70年11月に70歳で死去した。弔辞は先輩の川端が読んだ。川端は、72年4月に72歳で死去した。
 
女性理論物理学者の米沢富美子も卒業生
 
 学者・研究者として活躍している卒業生も多い。
 国際的に知られる女性の理論物理学者がいた。京大助教授、慶応大教授などを務めた米沢富美子だ。原子が結晶のようにきれいに並んでいないアモルファス(非晶質)という状態を解き明かす基礎理論を構築、世界の最先端を走った。若手の優秀な自然科学分野の女性研究者に贈られる猿橋賞など多くの賞を受賞している。
 米沢は、京大理学部に進学、山一證券勤務の夫の転勤に伴って米英などに留学、女性科学者の草分けの一人となった。ノーベル物理学賞受賞の湯川秀樹(旧制京都府立京都第一中学・現洛北高校卒)と朝永振一郎(同)の弟子でもあり、女性として初めて日本物理学会会長になった。猿橋賞を決める「女性科学者に明るい未来をの会」の会長を務め、19年1月に80歳で死去した。
 
 植物細胞学者で文化勲章を受章した桑田義備、情報処理工学の坂井利之、有機合成化学の細見彰、生物有機化学・創薬科学の木曽良明、生物分子化学の石野良純、ゲノム医科学の池川志郎、有機化学の桧山為次郎、霊長類学の中村克樹らもOBだ。
 
 文系では、仏文学者でプルーストの研究で知られる井上究一郎、財政学、公共経済学者の土居丈朗、ロシア政治の広岡正久、考古学の山中一郎、商学が専門で神戸大学学長をした福田敬太郎、会計学の石原俊彦、民法の佐久間毅、刑事訴訟法の堀江慎司、交通政策の戸崎肇、教育心理学の溝上慎一らが卒業している。
 
 政官界では、初代経済企画庁長官、通産相などを務めた高碕達之助が旧制卒だ。中華人民共和国と正式な国交がない時代の62年、日本代表として中国側代表の廖承志との間で日中の民間貿易を拡大させる覚書に調印した。両人のイニシャルを取って「LT貿易」といわれた。
 衆院議員を8期務め、郵政相(現総務相)をした井上一成、総務事務次官をした金沢薫は新制卒だ。
 
「水泳ニッポン」の基礎を築いた杉本伝の功績をたたえる記念碑
 
 文化・芸術分野では、名和晃平が気鋭の現代美術作家、柳川強と谷村政樹がテレビドラマ演出家だ。落語家の桂米輔、能楽金春流太鼓の人間国宝・三島元太郎も卒業生だ。松下眞一は、数学者と作曲家という二足のわらじだった。
 文芸では、文芸春秋社長を務めた平尾隆弘、毎日新聞記者出身でノンフィクション作家の岡本嗣郎、劇作家・脚本家でチャップリンの研究を続けている大野裕之、漫画家の椎橋寛らがOBだ。児童文学作家の二反長半もいた。
 朝日放送の記者出身で現在はフリージャーナリストの石高健次は、朝日放送記者時代の1995年、北朝鮮による日本人拉致事件で初めて実行犯から犯行を認める証言を引き出した。これが、日本人拉致問題を世にあぶり出した最初のきっかけとなった。
 
 茨木高校には「日本近代水泳発祥之地」という記念碑が設置されている。明治末に母校の体育教師になり「水泳ニッポン」の基礎を築いた杉本伝(つたえ)の功績をたたえたものだ。
 1916年に生徒たちと手作業で完成させた水泳場は、日本初の学校プールで、19年に50メートルに拡張された。杉本は全生徒皆泳を唱え、クロールなど近代泳法を取り入れ、世界への道を開いた。
 有力選手が巣立った。石田恒信は24年のパリ五輪で200メートル平泳ぎに出場した。茨木中卒で初の五輪選手だった。
 高石勝男は28年のアムステルダム五輪に出場し、800メートル自由形リレーで銀メダル、100メートル自由形で銅メダルを取った。64年の東京五輪では、水泳日本代表総監督を務めた。
 入江稔夫は32年のロサンゼルス五輪100メートル背泳ぎで、銀メダルを獲得した。奥田精一郎は茨木中学5年次に水球日本代表に選出された。後年、イトマンスイミングスクール会長になり、多くの五輪選手を育てた。
 現在の水泳部は、競泳、飛び込み競技を経て水球中心のクラブになっている。
 ガンバ大阪などサッカー・Jリーグ選手として活躍した八十祐治は、引退後に弁護士になった。Jリーグ経験者で初の司法試験合格者だった。吉田宗弘は慶応大に進学し、柏レイソルなど通算15年にわたりJリーグ選手として活躍した。
 小田島(旧姓・片山)梨絵は、岡山大の大学院まで進学した。マウンテンバイクの選手となり、2008年の北京五輪と12年のロンドン五輪でクロスカントリーに出場し、いずれも20位だった。(敬称略)
(フリージャーナリスト 猪熊建夫)
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加藤逢吉(本校初代校長)と正岡子規との一夜の出会い

2021年09月17日(金)更新
加藤逢吉(本校初代校長)と正岡子規との一夜の出会い
 
 久敬会広報委員長の岩井英雅さん(高20回)が正岡子規の随筆『筆まか勢 第一編』から見つけられた記事と初代校長加藤逢吉の紹介です。
 岩井さんは、茨木高校在職中は母校の百年の史料整理や『茨木高校百年史』編纂に尽力され、近年は「久敬会報」発行の中心になっておられます。
 
 明治22年(1889)24日、一高生だった正岡子規は郷里の松山へ帰省するために、従弟の藤野古白と新橋停車場を出発した。京都で三十三間堂を見学した後、汽車で神戸まで行き、八幡丸に乗船したのは27日。
 その上等室にたまたま乗り合わせたのが、当時、滋賀の師範学校に勤めていた加藤逢吉(本校初代校長)だった。
 
 子規の日記風の随筆「筆まか勢 第一編」には、同室の教師について、次のように記されている。

 《二人は年も若く一人ハ慶應義塾の教師、他ハ三重の師範学校の教師也 (中略)後には加藤逢吉といふ人も来りぬ、此人は滋賀の師範学校の教師にて 三重の教師石井某とは同窓の旧友なりしかば 書生間の出来事を物語られたり 二人とも もと東京大学に居りし人故 其話は多少余と関係もあり 殊に其時分のしくじり話しや朋友の評判などは 今日は皆堂々たる学士諸子の履歴に関する故
 覚えず笑壺に入りたり、斯くて三十時間許りの航海も長きとも知らで三津港に着けり 帰郷後ハ時候の温暖(東京に比して)なるが為に再生の心地し 七年ぶりに故郷の雑煮を味へり》
 加藤逢吉だけがフルネームではっきりと書かれているのが大変興味深い。よほど印象深かったのだろうか。加藤逢吉は安政4年(1857)生まれだから、この時32歳。子規はまだ22歳という若さだった。
 
 それから2年後に加藤逢吉は歴史的な事件に遭遇することになる。日本を親善訪問中のロシアの皇太子ニコライが、琵琶湖遊覧の帰途、巡査津田三蔵にサーベルで斬りつけられて傷を負うという、日本中を震撼させ大津事件である。事件は明治24年(1981)5月11日のことだった。幸いにもニコライ皇太子は軽傷で、襲われた場所を記念のために写真撮影させたい、という意向があり、15日にロシアの海軍士官らが赴くことになった。その電報を受けた滋賀県知事が英語の通訳兼案内人として依頼したのが、滋賀の師範学校の教師をしていた加藤逢吉ともう一人の教師だった。加藤逢吉は物理の教師だったが、英語も堪能だったのだろう。
 
 加藤逢吉が本校初代校長となるのは、それから数年後の明治28年(1895)のことである。ちなみにこの年、夏目漱石は子規の母校である松山中学に赴任し、そこでの経験が後に小説『坊つちやん』に結実する。また、〈柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺〉という有名な句を子規が詠んだのが、この明治28年秋のことだった。
 ご遺族から寄贈を受けた、明治31年(1898)から昭和14年(1939)までの加藤逢吉の日記を久敬会館に保管してある。子規が亡くなるのは明治35年(1902)9月18日。日記に何か書かれているかもしれない、と思って確かめたが、特に記述はなかった。
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高碕達之助記念講演会のご案内

2020年02月04日(火)更新
◆第三回 高碕達之助 記念講演会のご案内◆
 
高碕達之助(中4回)を語り継ぐ記念講演会をご案内します。
 
主催:高碕達之助に学ぶ会
    NPO法人高槻名誉市民を語り継ぐ会
演題:『満州引揚の国士~同胞日本人100万人を助けた高碕翁~』
講演:古海 建一 氏
日時:2020年2月24日(月・祝)14:00~
場所:高槻現代劇場305号
講演内容:
 今回は高碕達之助の多くの業績のうち、満州重工業開発総裁として1945年8月8日のソ連対日宣戦布告の事態に遭遇、終戦後も満州に残り日本人会会長として帰国できないでいる同胞100万人の帰還のため、ソ連、中国共産党や国民党政府と交渉を行い、多くの同胞を救ったことが中心とのことです。

2月2日の読売新聞朝刊にも大きく取り上げられています。
  • なお、一昨年11月に実施した久敬会イベント「高碕記念館見学」の報告は、このホームページの「久敬会行事報告」からご覧いただけます。
    https://www.kyuukeikai.jp/?p=450
  • また、「茨木高校120周年記念展示~資料でつづる茨木高校120年の歩み~」(2015年10月13日~24日実施)の著名な卒業生コーナーで高碕達之助(中4回)を紹介しました。このホームページの「周年記念行事」からご覧いただけます。
    https://www.kyuukeikai.jp/?p=245#more-245
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【卒業生訪問】夢を追い続ける(太田 健さん)

2019年10月10日(木)更新














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藤井泰則著『杉本伝(ツタエ)』紹介

2019年09月18日(水)更新
藤井泰則著『杉本伝(ツタエ)
 ~水泳日本生みの親、高石勝男とオリンピックへ~』の紹介

 2019年7月に刊行された『杉本伝(ツタエ) 水泳日本生みの親、高石勝男とオリンピックへ』は、日本近代水泳の礎を築いた、旧制茨木中学校の杉本伝教諭と茨木中学校のプールの物語です。著者は茨木高校久敬会の事務局次長である藤井泰則(高17回)氏。
 
 藤井氏は親しみを込めて「伝(でん)さん」と呼び、物語を綴ります。
 本書は「序章 水泳日本、世界の覇王となる」という印象深いシーンから書き出されます。1932(昭和7)年7月30日から16日間、アメリカのロサンゼルスで開催された第10回オリンピックの水泳競技で、男子水泳は競泳6種目のすべてでメダルを獲得し、中でも圧巻は100メートル背泳の表彰式でした。

《なんと三本の日の丸が高々と翻(ひるがえ)ったのだ。快晴のロサンゼルスの空に美しく映える日章旗は、見る日本人の心をうち震わせた。》

 そして、日本では号外が配られます。

《8月14日、東京朝日新聞は「水泳日本・世界の覇王となる」と大きな見出しをつけ、号外を配った。》

 もし、来年の2020年の東京オリンピックで、このような光景が出現したら、きっと日本中は歓喜の渦に包まれるに違いありません。まして、その中に、茨木高校関係者がいたとしたら、茨木高校や久敬会にとって大きな誇りになるでしょう。実は、ロサンゼルスで揚がった3本の日章旗のうち、一本は銀メダルの入江稔夫(としお)(中30回)氏を讃えるものでした。
 この「世界の覇王となった水泳日本」の基礎を作ったのが、杉本伝教諭であり、茨木中学校のプールだったのです。本書の帯的な箇所に印刷された、次の言葉がすべてを物語っています。

《クロール、飛込み、水球…日本近代水泳のすべては大阪・茨木のプールから始まった。》

 著者の藤井氏は、杉本教諭の生い立ち、そして杉本教諭が主導し、4年生の川端康成も1年生の大宅壮一も作業に参加した、日本で初めての学校プールの築造、さらにはそのプールでのクロール泳法の研究や全国大会での茨中生の活躍、さらにはオリンピックでの日本人選手の活躍の様子を、残された史料を綿密に読み込み、生き生きと活写しています。よくもこれだけ調べられたものだ、と感嘆するほどの徹底ぶりです。
 本書執筆の動機は「終わりに」で語られていることに尽きます。

《執筆の動機は杉本伝氏を本にして記録にとどめたいことにあったが、NHKの大河ドラマで田畑政治を水泳の代表としていることに対する軽い反発もあったことも認めておこう。金栗四三をオリンピックの陸上の代表とすることに全く異論はないが、水泳の代表は我らの大先輩である杉本伝氏の方が余程ふさわしい。クロールを普及させたのは田畑政治では断じてない。杉本氏がクロールを研究して普及させ、高石勝男氏がクロールを完成させたのだ。》

 まさにそのとおりです。
 1939(昭和14)年に茨中を退職した「伝さん」は、戦後の1952(昭和27)年に、久敬会の初代会長に推されます。そして、1979(昭和54)年に生涯を閉じました。91歳でした。
 終章は、1985(昭和60)年の「日本近代水泳発祥之地」記念碑の除幕式の様子と、1995(平成7)年の茨高創立100周年の年に完成した屋内プールの記述で締め括られます。

《伝さんがパリオリンピックに行った時、またその後の欧米視察旅行の時、あんなにも羨(うらや)ましく思い憧(あこが)れた屋内プールが70年の時空を経て、ようやく茨高にその姿を現したのだった。》

 ここまで読んできて、読者は深い感慨と共にページを閉じることでしょう。
 本書が多くの久敬会会員や水泳の関係者に読まれることを願ってやみません。
 なお、本書は一般の書店では取り扱っていませんので、ご購読のご希望の方は、直接、通信販売のアマゾンでご購入ください。 (2019年9月 広報委員会記)
 
◆著書の一部「おわりに」  ◆著書の一部「はじめに」
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毎日新聞「わたしの母校」に茨木高校の卒業生が連載されます

2018年10月24日(水)更新
毎日新聞「わたしの母校」に茨木高校の卒業生が連載されます
 
11月~12月の毎週火曜日に連載されます。
毎回1名の方を取材した記事が掲載され、7~8人の卒業生が登場される予定です。

クリックすると拡大します。
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監督・脚本が久敬会員の映画紹介

2018年05月14日(月)更新

監督・脚本が久敬会員の映画紹介

 監督・脚本が久敬会員の映画
「返還交渉人 いつか、沖縄を取り戻す」の紹介

6月30日から全国の単館劇場で公開されます  

 「返還交渉人 いつか、沖縄を取り戻す」は、2017年8月12日にNHKのBSで放送されたドラマを再編集して、100分の映画版として上映するもので、6月30日から東京ポレポレ東中野、7月7日から沖縄桜坂劇場他、順次全国の単館劇場で公開されます(大阪での公開時期は今のところ未定)
 
 監督はNHKのディレクターの柳川強(高35回)氏、脚本は西岡琢也(高27回)氏で、久敬会員が監督と脚本家としてコンビを組んで映画作品を作り上げるのは、おそらく初めてのことでしょうから、久敬会員の皆様にお知らせいたします。
 
 映画は米軍の「理不尽な占領」と闘い続けた実在の外交官である、千葉一夫の知られざる真実の物語を描きます。千葉一夫は対米交渉、対沖縄折衝の両面で大きな役割を担い、「鬼の千葉なくして沖縄返還なし」と称された、伝説の外交官です。

 主人公の千葉一夫を演じるのは井浦新、そしてその妻の惠は戸田菜穂。井浦と戸田は初共演とは思えないほど息が合い、激しい返還交渉に挑んだ男とそれを支える妻が育んだ夫婦愛を熱演しました。尾美としのり、佐野史郎、石橋蓮司、そして先頃惜しまれて亡くなった大杉漣などのベテラン俳優陣が、物語に重厚感とリアリティを付与していますから、見応えのある、骨太の「社会派エンターティメント映画」になっているそうです。
 
機会があれば、是非ご観賞ください。
  ◆http://cinefil.tokyo/_ct/17159255
  (ネット上でリリース発表となっています↑)

配給・宣伝の問い合わせ先は以下のとおり。
太秦株式会社 配給:小林三四郎 宣伝:岩本玲、今村花
〒151-0051 東京都渋谷区千駄ヶ谷 5-16-10 代々木エアハイツ 301
 tel:03-5367-6073 fax:03-6903-6970 mail : info@uzumasa-film.com

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「高碕達之助に学ぶ会」発足記念講演会参加記

2018年02月27日(火)更新
「高碕達之助に学ぶ会」発足記念講演会参加記
 
 2018年2月24日(土)に「高碕達之助に学ぶ会」発足記念講演会が、高槻市生涯学習センターで開催されました。
 以下はその参加記です。
 講演会が始まる2時前には、300名収容の多目的ホールはほぼ満席で、高碕達之助(中4回)に寄せる市民の関心の高さに驚きました。
 私は中村事務局長に確保していただいた席に座りましたが、岩橋昭元校長をはじめ、何人かの久敬会関係の方もお越しでした。
 基調講演は、元朝日新聞記者で『日中をひらいた男 高碕達之助』(この本についてはすでに紹介済み)の著者である牧村健一郎氏。牧村氏は企業家であり、偉大な政治家であった高碕達之助の事跡を5つのキーワード【現場主義・現実主義・ウインウイン・チャレンジ精神・人間力】で、分かりやすく、かつ熱っぽく語られました。
 高碕達之助については、おおよそのことは知っているつもりでしたが、改めてその偉大さと人間的魅力を再認識した講演内容でした。
 それを受けたパネルディスカッションでは、久敬会前会長の大木令司(高3回)氏と旧職員の北村正信氏がパネラーの一員として、高碕達之助の人となりについて興味深いエピソードを交えながら話され、私も聴衆の一員として聴き入っていました。
 大木・北村氏を含め、どのパネラーも語りたいことがいっぱいあるらしく、どなたも持ち時間をオーバー。その後、会場から活発な意見や質問があり、パネラーが答えるたびに大きな拍手が起こりました。
 最後のまとめとして、コーディネーターの島津淳子氏が、高碕達之助のことをもっと世間に知ってもらうために、NHKの連続テレビ小説でぜひ取り上げてほしい、と発言されると、会場は万雷の拍手。
 気づけば5時近くになっていました。   
広報委員長 岩井 英雅(高20)記
 
高碕達之助(中4回)のプロフィール
  • 1885年(明治18)高槻市柱本に生まれる
  • 1917年(大正6) 東洋製罐設立
  • 1953年(昭和28)電源開発初代総裁としてダムで水没する荘川桜を救う
  • 1954年(昭和29)69歳で鳩山一郎内閣の国務大臣に就任
  • 1962年(昭和37)中国とLT貿易を結ぶ
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高碕達之助に学ぶ会発足記念講演会紹介

2018年02月19日(月)更新
「高碕達之助に学ぶ会」発足記念講演会を紹介します。
  • とき  2月24日(土)14:00(高碕翁命日)。
  • ところ 高槻市総合センター2F(入場無料)。
  • 主催  「高碕達之助に学ぶ会」
大木令司氏(元久敬会会長・高3回)がパネルディスカッションに参加されます。
※画像クリックで拡大→

 高碕達之助氏(中4回)は、120周年記念展示「資料でつづる120年の歩み」のなかの「著名な卒業生」コーナーで紹介されました。(2015年秋、久敬会館で開催)
久敬会ホームページの「周年記念行事」からご覧いただけます。
 
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