加藤逢吉(本校初代校長)と正岡子規との一夜の出会い

2021年09月17日(金)更新
加藤逢吉(本校初代校長)と正岡子規との一夜の出会い
 
 久敬会広報委員長の岩井英雅さん(高20回)が正岡子規の随筆『筆まか勢 第一編』から見つけられた記事と初代校長加藤逢吉の紹介です。
 岩井さんは、茨木高校在職中は母校の百年の史料整理や『茨木高校百年史』編纂に尽力され、近年は「久敬会報」発行の中心になっておられます。
 
 明治22年(1889)24日、一高生だった正岡子規は郷里の松山へ帰省するために、従弟の藤野古白と新橋停車場を出発した。京都で三十三間堂を見学した後、汽車で神戸まで行き、八幡丸に乗船したのは27日。
 その上等室にたまたま乗り合わせたのが、当時、滋賀の師範学校に勤めていた加藤逢吉(本校初代校長)だった。
 
 子規の日記風の随筆「筆まか勢 第一編」には、同室の教師について、次のように記されている。

 《二人は年も若く一人ハ慶應義塾の教師、他ハ三重の師範学校の教師也 (中略)後には加藤逢吉といふ人も来りぬ、此人は滋賀の師範学校の教師にて 三重の教師石井某とは同窓の旧友なりしかば 書生間の出来事を物語られたり 二人とも もと東京大学に居りし人故 其話は多少余と関係もあり 殊に其時分のしくじり話しや朋友の評判などは 今日は皆堂々たる学士諸子の履歴に関する故
 覚えず笑壺に入りたり、斯くて三十時間許りの航海も長きとも知らで三津港に着けり 帰郷後ハ時候の温暖(東京に比して)なるが為に再生の心地し 七年ぶりに故郷の雑煮を味へり》
 加藤逢吉だけがフルネームではっきりと書かれているのが大変興味深い。よほど印象深かったのだろうか。加藤逢吉は安政4年(1857)生まれだから、この時32歳。子規はまだ22歳という若さだった。
 
 それから2年後に加藤逢吉は歴史的な事件に遭遇することになる。日本を親善訪問中のロシアの皇太子ニコライが、琵琶湖遊覧の帰途、巡査津田三蔵にサーベルで斬りつけられて傷を負うという、日本中を震撼させ大津事件である。事件は明治24年(1981)5月11日のことだった。幸いにもニコライ皇太子は軽傷で、襲われた場所を記念のために写真撮影させたい、という意向があり、15日にロシアの海軍士官らが赴くことになった。その電報を受けた滋賀県知事が英語の通訳兼案内人として依頼したのが、滋賀の師範学校の教師をしていた加藤逢吉ともう一人の教師だった。加藤逢吉は物理の教師だったが、英語も堪能だったのだろう。
 
 加藤逢吉が本校初代校長となるのは、それから数年後の明治28年(1895)のことである。ちなみにこの年、夏目漱石は子規の母校である松山中学に赴任し、そこでの経験が後に小説『坊つちやん』に結実する。また、〈柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺〉という有名な句を子規が詠んだのが、この明治28年秋のことだった。
 ご遺族から寄贈を受けた、明治31年(1898)から昭和14年(1939)までの加藤逢吉の日記を久敬会館に保管してある。子規が亡くなるのは明治35年(1902)9月18日。日記に何か書かれているかもしれない、と思って確かめたが、特に記述はなかった。
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