演題:「報道の重さと怖さ」
日時:2015年11月29日(日)14時~16時20分
講師:石高健次(高21回 ジャーナリスト)
参加者:23名
担当行事委員:辻本、根来、中西
拉致問題に詳しいジャーナリスト石高氏の原点は生まれ育った旧村落共同体と茨高にあるという。悪ガキで牧歌的雰囲気の中で育ったことが、結果的にはジャーナリストの道に進むことにつながったと述懐された。1995年にテレビ放映された大阪のコック原さん拉致実行犯への直撃インタビューを当日見ることが出来たが、それは本当に迫力のあるシーンであった。それまでに積み重ねられた取材の裏打ちがあるとこういう映像ができあがるのかと唸らされた。また言葉を選びながらも敢えて言われた、「70年平和ボケ」の日本と「70年戦争ボケ」の北朝鮮という構図と、北朝鮮側が強く持っている南北朝鮮統一国家目標が拉致問題解決を困難にしているという指摘が現状の理解・認識に大いに役立った。また横田めぐみさん拉致を突き止めそれを家族に告げるときの不安・葛藤を語られたときに、報道人の抱える怖さを垣間見た気がした。
修羅場をくぐられてきた報道人の一言ひと言は説得力があり、持参された著者割引の本を手に帰途につかれた参加者も多く、休憩なしのあっと言う間の2時間20分であった。
拉致報道の軌跡 ジャーナリスト 石高健次
国家が知らなかった「横田めぐみさん拉致」をなぜ、突き止めることができたのか。
拉致取材の発端から小泉総理訪朝(2002年)で北朝鮮が拉致を認め、被害者5人が生還するまでの、石高による主なTV番組制作や出版など報道と事実の経緯
(敬称略)
1) 『楽園から消えた人々 ~北朝鮮帰国者の悲劇~』1992年2月:『サンデープロジェクト』(テレビ朝日系)特集で放送
4月:『テレメンタリー』(テレビ朝日系)で放送
5月:ドキュメンタリー番組として放送
横田めぐみ拉致報道につながっていく出発点のドキュメンタリー番組。テレビ朝日系列の全国ネットで放送。
1991年12月、フランスの商業用衛星が撮影したことで判明した最初の北朝鮮による核開発疑惑を取材するためソウルへ。北の亡命高官の証言を得て『サンデープロジェクト』で特集。このとき、亡命者を保護管理する情報機関とのやり取りのなかで、北朝鮮帰国者で亡命しソウルで暮らす男性の存在を知りインタビュー。彼の一言「帰国者数千人が行方不明になっている」に驚き、取材を始める。
北朝鮮帰国者とは、1959年の第一船を皮切りに、「地上の楽園」と宣伝された北朝鮮へ永住のために渡った在日朝鮮人や日本人妻。その数、9万3千人にのぼる。彼らは、社会主義祖国建設の夢を北朝鮮に託し、海を渡ったのだった。
しかし、待ち受けていたのは過酷な思想統制と食うや食わずの生活だった。帰国事業当時の在日韓国・朝鮮人は約60万人。帰国者のうち日本人妻とその子(日本国籍者)を差し引くと実に在日人口の7分の一が北朝鮮へ渡っており、殆どの在日コリアンは、親戚・友人知人をたどれば北朝鮮帰国者に行き当たり、かつ行方不明になった者の情報を持っているのだった。それを公にして救出に結びつけたいが、口にすれば元気な身内まで収容所送りになる・・・。葛藤の中から、それでも上がってくる声を拾った。
また、北朝鮮政府の高官(副首相補佐官)で帰国者を管理していた者が亡命してソウルにいた。
取材から、帰国者の2割が政治犯として捕らえられ行方不明になっている事実を『サンデープロジェクト』で放送。100人近い帰国者が日本へ戻ろうと漁船を買うなどし、公開銃殺されていた。
それまで、日本には「北朝鮮は小さくて貧しい国だが、金日成主席の指導のもと人々は平和に幸せに暮らしている」というイメージがあった。それを打ち砕く、北朝鮮による人間弾圧の実態が詳しくテレビで報道された最初のケースといえる。
特に在日韓国・朝鮮人社会に大きな衝撃を持って受け止められた。
ここに、後ろ姿・匿名で登場する在日朝鮮人女性・朴春仙は、帰国者の兄を銃殺刑に処せられていた。しかし、その詳しい経緯は、まだ語らない。
『闇の波涛から~北朝鮮発・対南工作』1995年5月放送
『楽園から消えた人々』から2年後の94年夏、朴春仙が、「2年前は黙っていたが実は・・・」と、兄銃殺の理由となったスパイ辛光洙との同棲のことを話してくれた。
「辛光洙は、大阪のコック原敕晁を拉致し彼に成りすましていた。原さん名義の運転免許証も見た」と。
日本人拉致の取材が始まった。
辛光洙の指示で原敕晁拉致を手助けした在日朝鮮人が3人いた。その1人が1985年、辛とともにソウルで逮捕され、減刑・恩赦で仮釈放されていた。金吉旭(2006年4月になって、日本の警察庁が原敕晁拉致で国際手配)である。1995年2月、彼の自宅を韓国済州島に突き止め、張り込みの末、直撃インタビュー。
金は路上で泣き崩れて拉致を認め、「原さんには気の毒なことをした」と語った。初めて北朝鮮による日本人拉致を実証した。
同年5月、原敕晁、海岸のカップル3組、ロンドン留学の有本恵子ら日本人計13人が拉致されていると報道。
しかし、世間は「嘘だろう・・・」「北朝鮮のどこに日本人を拉致する理由があるのだ」「拉致といえば、韓国のKCIAが東京のホテルから野党指導者の金大中を拉致したくらいのものだろう」と受け止めたのか、メディアの後追い取材はなく、放送は社会的に黙殺される形となった。
番組のラストで朴春仙は全州刑務所に収監されている辛光洙に面会すべく出向くが、彼から拒絶される。
古くは日本の朝鮮半島植民地支配、その後の南北朝鮮の分断、北朝鮮の対南赤化革命路線という歴史の流れの中で起きた拉致事件。
「対南工作」という言葉が恐らくテレビで初めて使われたのではないか。タイトルにこの文言を使用するに際して緊張した。
番組は韓国語に翻訳され、95年11月5日、韓国放送公社KBSから放送された。日曜日20:00のゴールデンタイム。放送直後、北朝鮮のラジオが、朝日放送を名指しで「拉致はでっち上げだ」と非難した。
2) 単行本『金正日の拉致指令』(朝日新聞社刊) 1996年9月 出版
ドキュメンタリー『闇の波濤から』を東京で見た朝日新聞出版局の編集者から石高に電話があり、「あの放送内容は事実か?」と。
「間違いないと思う」
「では、本にして訴えましょう。記録としても重要ですから」
本を書くための拉致取材が始まった。
この過程で、日本政府も警察も知らなかった横田めぐみさん拉致を突き止めるきっかけをつかんだ。
ある北朝鮮工作員が、おそらく平壌の工作員専用915号病院でめぐみさんと見られる女性と身の上話をした。その後の94年、彼は韓国へ亡命し、次のように情報機関に供述していた。
「1976年か77年。13歳、中学1年生の女の子が拉致され平壌で生存している。学校のクラブ活動でバドミントンの練習をして帰宅途中に拉致された。少女は、双子の妹だ。5年経って朝鮮語をマスターしていれば、親の元へ帰すと指示された。必死で勉強し、5年後、帰して欲しいと申し出たが、ダメだと拒絶された。結果、ノイローゼになり、2度目の入院をしていた」
工作員は、女性の名前や場所名を聞かされていなかった。
石高は、学校帰りに行方不明になっていれば、少なくとも地元新聞か大手紙県版には記事が出ているだろうと考えた。上記、原敕晁拉致が宮崎市青島海岸からだったこともあり、宮崎市、日南市など地方都市に足を運んでは図書館で新聞の縮刷版をめくった。しかし見当たらない。当時、新聞のネット検索はなく、手間のかかる作業だった。空しく1年半が経過。
しかし、事態は思わぬ展開を見せる。
単行本が96年9月に出版されると、雑誌『現代コリア』から本を紹介したいと原稿執筆依頼がきた。初めて、「少女拉致」の情報を公にした。
これがきっかけとなり、少女は横田めぐみだと判明する。
1997年2月3日 横田めぐみ拉致疑惑 テレビ朝日系ネットニュースで放送。同日発売の「アエラ」が、石高健次が横田めぐみ拉致を突き止めた経緯を含め掲載。産経新聞朝刊が一面で報道。また、同日午後、西村真悟議員が衆議院予算委員会の総括質問で取り上げ、この模様はNHKで中継放送された。
3) 『空白の家族たち ~北朝鮮による日本人拉致疑惑』1997年5月放送
横田めぐみ拉致疑惑報道が行われる11日前。97年1月23日、川崎市の横田めぐみご両親の自宅を訪ね、娘さんが拉致されて北朝鮮で生きている可能性があることを告げる。両親は20年間なんの手がかりもなく過ごしてきた。その果てに、もたらされた娘の生存情報だった。
北朝鮮による拉致というものを3年前から取材しているが間違いなく拉致は存在することや娘さん拉致の情報を掴むに至った経緯を詳しく告げた。
「しかし、国交がないので政府が動くしかない。5,6年はかかるかも知れない」などと話した。
しかし、朝日放送では95年の報道が黙殺されたこともあり、政府が動かなければ横田めぐみさんや韓国に情報をもたらした工作員家族の生命に危険が及ぶと判断。彼女を知る工作員に写真面割りをさせるなど、さらに確証を深めるまではと報道を控えた。
97年2月3日、雑誌「現代コリア」などのルートで、「少女拉致情報」を知った産経新聞と週刊アエラが同時に報じた。これを機に各メディアは一斉に報道。
3月25日、石高は、かつて李恩恵問題を国会で扱った参議院議員の秘書兵本達吉と協力し合って、互いに面識のない各地の被害者家族に声をかけ、「北朝鮮による拉致」被害者家族連絡会を立ち上げる。
横田めぐみ拉致発掘のいきさつとその後の政府の動き、家族会誕生、家族たちの苦悩を追ったドキュメンタリー『空白の家族たち』を放送。
4) 『これでもシラを切るのか北朝鮮』(カッパブックス)1997年11月出版
日本政府が北朝鮮に拉致の真相解明と被害者安否確認を要求しても、北朝鮮は「植民地支配という過去の清算から逃れるためのでっち上げだ」などとして拉致の事実を一切認めなかった。しかし、一方で日朝の話し合いは続き、その度にコメなど経済支援を要求し、日本政府は応じるようになった。
97年11月、北朝鮮帰国者のうち日本人妻が一時里帰りで日本を訪問した。
このままいけば、拉致は封印されたまま国交樹立に向かうのではとの危惧を抱き、拉致の物的証拠をあらためて突きつける形で本にした。
5) 「よど号」の妻、拉致実行を認め両親に謝罪 2002年3月 「ニュースステーション」
拉致問題はなんら進展なく膠着状態が続いていた。
この間、よど号の妻・八尾恵が病気から秘密裏に町田市内で入院した。病院を突き止めると見舞い兼取材に幾度か出向き、有本恵子さん拉致について知っていると語り出す。
同時に、拉致問題を共に取り組んできたテレビ朝日の記者らに知らせ、彼らは八尾の生活周りを世話する。
2002年3月、テレビ朝日の取材に対し「神戸出身でロンドン留学中の有本恵子さんを拉致しました」と八尾恵が告白。横浜のホテルで有本の両親と対面し謝罪するシーンが『ニュースステーション』で放送されると、再び拉致問題への関心が高まる。放送翌日、政府は有本恵子を拉致被害者と認定し、半年後の2002年9月小泉総理訪朝につながっていく。
2002年9月17日、小泉総理が平壌訪問。金正日総書記が拉致を認め謝罪。
同年10月15日、拉致被害者5人が生還。当初、5人は北朝鮮へ戻る予定だったが・・・。
石高は、福井の故郷に戻った拉致被害者・地村夫妻と3日間を共に過ごし、拙著カッパブックスなどを読んでもらい「北朝鮮へ戻ると二度と日本へ帰って来られない!」と説得。
彼らが応じたことを同23日朝、自民党組織本部長室で拉致議連の安倍晋三、中川昭一、平沢勝栄に伝え、翌朝、総理官邸近くのキャピタル東急でも鈴木勝也日朝交渉担当大使らに伝えると、新潟へ飛んだ。
赤倉温泉に居た拉致被害者・蓮池薫夫妻と合流、北朝鮮へ戻らぬよう説得。彼は翌24日午前10時、中山恭子内閣参与に「子供たちを日本へ呼び、協議して戻るかどうかを決める」とTEL。
以上を受けて、同日16時、福田康夫官房長官が、「本人の意思とは別に、わが政府として5人を再び北朝鮮へ戻さないと決断した」と発表。その後、家族も生還することになる。
6) 『光は遠くにありて ~拉致被害者家族の闘い~』2003年5月放送
2002年9月、日朝首脳会談で、北朝鮮側は「横田めぐみ、有本恵子ら8人は死亡」と通告。被害者家族は絶望のどん底に叩き込まれた。
しかし、すぐに北朝鮮が提出した死亡確認書がでたらめであることがわかる。被害者の親はすでに80歳を超している。老いの身に鞭打って真相解明を求め、再び立ち上がった。
わが子は生きているのか、死んでいるのか・・・
「絶望と悲憤」に押しつぶされそうになりながらも、事態を正面から受け止めつつ、光を見出そうと必死に行動する家族だった。