東京新聞・川端康成直筆の弔辞見つかる

2021年10月11日(月)更新
川端康成直筆の弔辞見つかる
「やさしさと気弱さと…」親友・大宅壮一への思いとは
2021年5月16日 06時00分 東京新聞
 
 ノーベル賞作家の川端康成が1970年11月に、評論家大宅壮一(おおやそういち)の葬儀で読んだ直筆の弔辞の原本が、東京都世田谷区の雑誌図書館「大宅壮一文庫」で見つかった。和紙に毛筆でしたためた文章には、青春時代から続いた厚い友情がうかがえる。文庫の担当者は「日本文化に影響を与えた2人の間柄が分かる貴重な資料」として、今年の創立50周年を機に公開の準備を進めている。(山下葉月)
 
 
 
 1090文字から成る弔辞は縦36センチ、横230センチ。複製が埼玉県越生町(おごせまち)の文庫分館にあるが、原本の所在は不明だった。文庫事務局長の富田明生さんが2019年に施設の書斎を整理中、ふろしきに包まれた桐きりの箱を見つけ、中から表装された巻物が出てきたという。
 70歳で亡くなった大宅の葬儀は、港区南青山の青山葬儀所で営まれた。葬儀で川端は和紙を広げて弔辞を読み、表装は後日にされた。
 2人は大阪府立茨木中学校(現在の茨木高校)の同窓生に当たり、川端より1つ年下の大宅は2年遅れで入学している。2人の出会いは、東京帝国大に進学してからの同人誌「新思潮」での活動だったとされる。中学時代から少年雑誌の読者投稿の常連だった2人は意気投合し、互いに家庭を築いた後も深くつきあった。一時期は東京・阿佐谷の二間長屋で隣り合って暮らしていた。
 川端は雑誌「新潮」(1951年第1号)で大宅について書いている。東京帝大卒業のとき、唯一、祝ってくれたのが大宅だった。どこかで手に入れた鶏をつぶして食べさせてくれた。「彼はいつまでも私の泣きつきどころの一つ、無茶な願ひの持ち込みどころ」と述懐している。
 
 大宅も、新潮の同年第11号で川端について「彼となら、何時間でも話してをれるし、叉またちつとも口をきかずに一日暮らすこともできる。とにかく不思議な存在である」と記した。
 川端は弔辞で「四、五十年前に恩義を受けながらなんら酬(むく)いる事のなかった者」と自らを省み、「今は故人大宅君を哀惜追慕悲悼する念、列席のうちの多くの人よりも深痛が切ではないかと、ここに立って省みて恥じる」と、誰よりも大宅の死を悲しんでいると呼び掛けた。
 「あの野性縦横闊歩(かっぽ)の裏にやさしさとこまやかさと気弱さとさびしさとはにかみとをも備えた大宅君」と、長年の親友だからこそ知る人間性、性格にも触れている。
 2人は茨木高の創立70周年の講演会に出席するなど、しばしば行動を共にした。富田さんは「弔辞の心情あふれる内容は、社会を動かし続けてきた2人の古くからの交流を裏付ける」と話す。
 
◆猪瀬直樹さん「孤独な川端、心を許せた」
 作家で元東京都知事の猪瀬直樹さんに弔辞について聞いた。猪瀬さんは、著作に大宅壮一と川端康成を描いた小説「マガジン青春譜」がある。
 「マスコミの帝王」として交友関係が広かった大宅への弔辞を、あえて川端がささげたのは、2人が世に出るまでの辛酸をなめた青春時代を共有しているからだ。
 20代の2人が隣家で暮らしていたのはわずか1年足らずだが、妻同士も互いに勝手口を行ったり来たりする仲となり、ある種の家族同然の関係になった。弔辞の中の「四、五十年前の恩義」とは、孤独だった川端が、大宅に心を許せたことだろう。
 表向きには「野性縦横闊歩」とみられていた大宅だったが、「やさしさとこまやかさと気弱さとさびしさとはにかみとをも備えた」としてるのは、大宅の本当の姿を、川端は誰よりもよく知っていて感謝の気持ちを伝えたかったと言える。(談)
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