“ハイチ”の復興支援で頑張る卒業生がテレビに登場!

2013年12月17日(火)更新
supercopy-14.html supercopy-15.html supercopy-16.html supercopy-17.html supercopy-18.html supercopy-19.html supercopy-20.html supercopy-21.html supercopy-22.html supercopy-23.html supercopy-24.html supercopy-25.html supercopy-26.html supercopy-27.html ~ 高44回 大野拓也氏が12月9日(月)のテレビ大阪に ~
このたび、IOM国際移住機関ハイチ事務所に勤務する高44回の大野拓也氏が、 ハイチでの復興支援の活動内容につき、この7月に8日間に亘る密着取材を受け られ、その時の様子が2013年12月9日(月)の21時から、テレビ東京系列 (テレビ大阪)で、『世界 ナゼそこに? 日本人 ~知られざる波瀾万丈伝~』の 番組で放映されました。
番組に登場する大野拓也氏(高44回、阪大工学部卒)は、海外で活躍する災害時 簡易住宅のスペシャリストで、ミスターシェルターと呼ばれている。阪神大震災で自分自身が遭遇した出来事が忘れられず、今の仕事のきっかけとなり、2010年のM7.0のハイチ地震直後に移住して、ハイチ復興支援活動に従事している。
この彼の活動を8日間に密着取材した内容・姿がテレビ大阪で初公開されました。 そこでは、彼の波瀾万丈の人生ドラマを見つけることができることになります。 又、大野氏と来年卒業する高66期生との間で、人権委員を中心にビデオレターに よって交流したとの話もあります。
そこで、放映された内容を以下の通り、ダイジェストの形で再録してみました。
 
『世界 ナゼそこに? 日本人 ~知られざる波瀾万丈伝~』12月9日(月)放映
 
ハイチという国
 ハイチといえばカリブ海の青い海と白い砂浜が美しいリゾート地というイメージのある国ですが、実はそうではないこんな一面もあることをご存じでしょうか。
 2010年1月12日午後4時53分、ハイチ地震。M7.0の大地震は、死傷者およそ53万人、津波も発生し、倒壊家屋はおよそ30万戸にも及びました。さらに、2012年10月23日未明、ハリケーン「サンディ」。倒壊家屋およそ3万戸、再び多数の死傷者・行方不明者を出す大惨事となりました。自然災害に直面することが特別に多く、その度に多くの被災者が生まれるというハイチ。一体、こんな自然災害が起きた直後に移住し、貧しい被災者を救う日本人とはどんな人物なのか?
 ハイチへ行くには、直行便がないため、まずはアメリカ・ニューアーク空港までおよそ12時間半のフライト。そこで乗り換え便を待つこと2時間。そして、マイアミへおよそ3時間のフライト。さらにさらに乗り換え9時間待ち。そして、マイアミからおよそ2時間半。日本出発から合計約29時間かけてようやく到着したのは、中米のカリブ海に浮かぶ南海の楽園ハイチ共和国。そんなハイチの面積は約27,750k㎡(東京都の約10倍)、人口約1,013万人(東京都より少ない)。
 言語はクレオール語という現地語で、少しフランス語が混ざった言葉。それもそのはず、ここハイチは1697年にはフランス領となり、107年という長い統治があったため。
 この国に住む人々はほとんど黒人。しかし、もともとこの地に黒人はいませんでした。負の遺産、奴隷貿易で連れて来られた黒人達が、1803年にハイチ革命を起こし、独立を勝ち取り、1804年、世界初となる黒人による共和制国家が誕生したのです。そんなハイチは独立してからおよそ200年。今でも混乱が続いており、治安はあまりよくありません。商店は頑丈な鉄で囲われており、格子越しに商品を販売。ほとんどの店ではショットガンを持った警備員を雇って配備。国内にピストルは10万挺出回っているといわれており、これは国民の100人に1人がピストルを持っている計算になります。また、取材期間中に行われていた、楽しいはずのカーニバルでも、なんとおよそ1,300人もの死傷者が出る事態に。この治安の悪さに国連が1993年より介入、現在まで治安維持の活動を続けているのが現状です。
 今回のロケでは、取材班が空港に着いた瞬間から現地の警察が密着ガード。カメラを持っている外国人は特に襲われる可能性が高いからとのこと。さらに、移動は軍などでも使用する頑丈な車を使用。このくらい用心しないと安心してロケは行えないのです。この治安の悪さに拍車をかけているのは、この国の貧困問題にあります。少しでもお金になるものはないかとゴミ処理場に詰めかける人々。そう、ハイチは中米の中で最も貧しい国であり、国民の80%は1日180円以下で暮らす貧困層なのです。「まだここに来ている人たちはゴミを拾いにくるだけ良いほうなんです。あきらめて何もしない人がほとんどですから」。
 服や体は川で洗う。家にトイレがなく、庭先で用をたす。それが当たり前なんです。この貧困だけでも生きていくのが大変。それなのに、さらに……。
 
自然災害に見舞われることが多いハイチ
 大きな亀裂が入った壁、そして、家の中でも崩れかかったレンガがそのままに。こちらのお宅の壁は崩壊寸前になっています。「3年前のハイチ地震で崩れてしまったんだよ。地震の時、家の中にいたら危ないと思って家族みんなで外に出たんだ。そしたら隣の家の塀が倒れてきて、娘が下敷きになっちまった。助けようとしたけど、その上へまた崩れた家が重なって、結局娘を助けることは出来なかった」。家を修理するお金もなく、いつ崩れるか分からないこの家で、家族12人、今も暮らしているといいます。
 ハイチは地震、さらには毎年のように来るハリケーン、といった自然災害に見舞われることが多い国。 こちらは家を失った被災者が暮らす通称テント村。世界各国から援助されたテントを空いている土地に不法に立て自然に集まった場所。ここでおよそ500世帯、2,500人が身を寄せ合いながら生活しています。(中略)
 ハイチ地震から3年経った今も、毎年来るハリケーンの影響もあり、復興は追いついていません。現在でもおよそ30万人がテント生活を余儀なくされています。
 
IOM(国際移住機関)で働く大野拓也さん
 ここで本題。そんな危険で貧困でもあるハイチに、わざわざ地震直後に移住してきた日本人とは、一体どんな人物なのでしょうか?
 まずは情報を得るため地元の人が集まる市場へ。(抗生物質のバラ売り風景の映像)。本題の聞き込み開始。「この辺にハイチ地震直後に移住して来た日本人がいるって聞いてきたんですけど」。「知っているよ。オオノ」。「日本人だろ。この辺じゃ有名さ。オオノ」。「その日本人ならIOMって所にいるぞ」。
 ということで日本人がいる場所へ(IOM正門でのやりとりは省略)。
 1時間経過。やっと会えました。こちらが大野拓也さん40歳。聞けば大野さん、阪大を卒業。しかも大学院の博士課程まで進んだにも関わらず、なぜか日本でのエリートの道を捨てこの地に単身やって来たといいます。しかし、一体なぜなのか? 
 大野「まあ今、死ぬなら死んでもいい」。
 実は大野さんにはある壮絶な過去がある。そのことが理由でこの地にやって来ることになったのだというのです。果たして何があったというのか?
 その謎を探るべく大野さんに密着することに。
 その前に、ここIOMという所で、大野さんが一体何をしているんでしょうか?
 大野「震災被害者のための復興住宅、ハリケーン被害者のための仮設住宅」。
 実はここIOM(国際移住機関)とは、世界の紛争地や災害被災地、さらにその周辺地域で住む家を失った人々の移住を支援する国際機関(1989年設立、本部はスイス・ジュネーブ、スタッフは世界各国約7,300人で、日本人は35人)。その他にも移民の不法滞在者の人身取引の予防や仲裁・保護なども行っています。そして大野さんが阪大工学部建築学科で得た知識を生かして、設計デザインから現場監督までこなしながら仮設住宅を作っているのだといいます。そんなIOMの敷地内を歩いていると、
 大野「これから各家庭に配る生活用品の配布の準備をしています」。
 なんと大野さんがやっているのは、仮設住宅作りだけではありませんでした。これは家が倒壊してしまった被災者がテントに移る際に渡す生活用品。水汲みに使えるバケツの中に、トイレットペーパーや石鹸、歯ブラシなど、被災者の初期の生活から支援しているんです。そして一緒に働いている仲間は……(中略)職員の皆さんは明るい人ばかり。
 
ハイチでの仮設住宅建設
 ここに来て早や3年。スタッフと共に頑張り続けた成果は着実に実っているといいます。
 大野「ここはサント・セブンティーンという地名からとった名前なんですけど、仮設住宅で356棟作りました」。
 そう、これが大野さんが作ったというハイチの仮設住宅。3年前の震災直後に建設され、356世帯、およそ2,000人が今もこの仮設住宅で生活しています。この仮住まいの耐久年数はおよそ3年。大野さんはその点検にやって来たのです。
 大野「ベニヤで作ってまして、塗り替えたり、別の素材に変えている家庭は長持ちするんですけども、そのままの家庭は雨が入ってきてしまう」。
 そんな仮設住宅の中はどうなっているのか? (中略) 大野さん、すみずみまでチェック。3年経っても構造的には問題がないようです。 (中略) 「とても快適だわ」。
 実はこの仮設住宅に住めた人はまだいいほう。今でもテント暮らしの人が、ハイチにはまだ30万人もいるのです。しかし、今最も深刻な問題が……それは土地不足。度重なる自然災害により、人が住める土地も壊滅的なダメージを受けてしまったのです。(中略)
 2004年ハリケーン「ハンナ」により2つの川が増水し氾濫、中洲に暮らす100世帯が被災。さらに2012年のハリケーン「サンディ」でも再び大きな被害を受けた、この地の被災者たち。移住先の土地が見つからず、9年間テント暮らしが続きました。ようやく見つかったのは、昔住んでいた中洲を見下ろす山の上の僅かな空き地だったのです。(中略)
 
治安の悪いハイチでの一人暮らし
 夜になり、大野さんは自宅に戻ってきたようです。
 大野「はいどうぞ……(パチッ スイッチを押しても明かりがつかない)。電気がないです。電気が今日来てないです。もともと1日に3、4時間しか電気は来ないんですけど、蓄電池に溜まる分も来なかったんですね」。
 真っ暗で分かりづらいですが、こちらが大野さんの自宅。結構いい暮らしをしているんですねえ……と思っていたら、この家の2階の一部屋を間借りしているだけだといいます。ここが大野さんの部屋。やはり暗くて分かりづらいですが、8畳くらいの広さです。
 大野「今日の行水用の桶はここにある」。
 電気がないと水を引っ張り上げることが出来ないため、シャワーも使えず、バケツの水一杯で体を洗います。電気がなくても料理は作れるそうで、自炊が基本の大野さん。鉢巻きで懐中電灯を頭に巻きつけ、即席ヘッドライトで調理します。(オクラのポン酢がけを立ったまま食べ、素麺を茹でる様子)。もう3年になるハイチでの一人暮らし。板についています。こうして震災直後からここハイチで仮設住宅を作り続けている大野さん。
 ハイチでは誘拐が多く、大野さんの移動はすべて車だそうです。そして、帰宅時は尾行されないように、同じ道を通って帰らないようにしているそうです。しかも夜は襲われる危険があるため、赤信号でも止まらないそうです。安全確認をしてから通過するそうですが、止まっていると警察も早く行けと促すそうです。
 
大野拓也さんの経歴
 1973年、大野拓也さんは大阪府吹田市で生まれました。両親共に大学教授。小学生の頃通っていたフルート教室では、先生からこんなふうに評されました。「無口だけど、とってもひたむきな大野君」。でも、夢中になったのは、フルートよりも工作でした。目に見える何かを作り出す面白さ。世の中がバブルを迎えた高校時代、少年の夢は高層ビルの建築に向かいます。いつか自分もでっかいビルを建ててみたい。希望を胸に大阪大学工学部建築学科(現在の地球総合工学専攻)に入学。旧帝国大学の名門でした。
 けれど人生の設計図が見えてきたその矢先、思いもよらぬ非劇に見舞われたのです。
なんと21歳にして突然の余命宣告。
 大野「死を受け入れられたか、られてないかっていうと、受け入れられないですよね。何を言うてんのや! という感じですよね」。
 大学3年の秋、なぜか突然右足に違和感を感じるようになりました。ぶつけた訳でも捻ったわけでもないのに、右太股の付け根に激痛が続きます。やがてまともに歩くことさえ出来なくなってしまったのです。
 大野「股関節ですね、右の。大腿骨の頭のところですね、腫瘍が出来ました。見つかった時はもうピンポン球よりも大きくなってまして」。
 大腿骨に巣食った巨大な骨の腫瘍。腫瘍の影がぼやけているのを見て、医師は眉をひそめました。極めて危険な骨肉腫かもしれない。
 大野「例えば悪性ならどうなるんですか、と聞くのがやっとだったんですけど、入院していた病棟に同じような病気の人がいて、あと半年も持たないくらい体中に蔓延していて。若いから進行が早いので、早く対処していかなければいけないよ、ともう有無を言わさないみたいな雰囲気でしたね」。
 一刻も早い手術が必要。その言葉が大野さんを絶望に追いやります。運命を呪いました。なぜ俺が……。直前に良性と告げられたものの、手術を終えても一向に引かない足の痛み、不安は消えませんでした。本当に大丈夫なのか? 未来はあるのか? 疑心暗鬼の中でリハビリが始まります。そして、手術から僅か2週間後、さらに追い打ちをかける出来事が……。 それは、1995年1月17日5時46分、M7.3、死傷者約5万人のあの阪神淡路大震災に遭遇してしまったのです。倒壊家屋50万戸を数えた激震の瞬間、大野さんは自宅のベッドで眠っていました。まだとても歩ける体ではなかったといいます。これで俺の人生も終わるのか。すさまじい揺れの中で、身動きも取れず、すべてを諦めたそうです。
 大野「先が見えへんし、痛いし、歩かれへんし、もう避難するエネルギーはなかったですね。だから地震ですべて帳消しというか、何も抵抗することはないなっていう感じ、今、死ぬなら死んでもいいっていう……」。
 幸い大野さん自身は被害を免れたものの、慣れ親しんだ町は無残に破壊されていました。自分は死んでもいいと思ったのに、無念を抱えて亡くなっていった人がどれだけいただろうか。もう一度生き直さなければ……。余命宣告を受けたものの良性と分かり、術後のリハビリのかいもあって、足の痛みも癒えました。
 学生生活を取り戻した大野さんは、生きたくても生きられなかった人たちの分も、と改めて夢に向かって歩み出します。それは少年時代からの夢、でっかいビルを建てたい、その一心で大学院に進み、アメリカの建築会社で1年間のインターンも経験します。帰国して工学博士も取得。キャリアを築く海外留学も決まりました。一歩ずつ着実に縮まっていく夢への距離。でっかいビルはすぐ目の前にあったのです。
 
スリランカでの活動
 そんな時、またしても人生を大きく変える出来事が起きました。2004年12月26日7時58分、スマトラ沖大地震が発生。M9.0の大地震は巨大津波を呼び、死傷者およそ22万人、倒壊家屋およそ9万戸。スリランカなどインド洋周辺に大きなダメージを与えたのです。
 大野「亡くなった人も多いんですけども、それ以上に家を失った方も多いので、神戸の震災の時に何も出来なかったので、時間もある、スキルもあるので、何か役に立てないかと思いました」。
 予定されていた留学までは3カ月ある。せめてそれまでの間、自分が役に立つのなら……。スマトラ島で起きた地震の津波により大きな被害を受けていたスリランカへ、大野さんは仮設住宅を作るために渡ることにしたのです。しかし行った先の目の前の光景に絶句しました。津波は何もかも飲み込み、人々の暮らしを根こそぎ奪っていたのです。
 作業は気温35度を越す炎天下で始まりました。最初はガレキの処理、続いて仮設住宅の基礎作り、震災直後のスリランカは衛生状態が悪く、スタッフの中には食中毒に倒れたり、デング熱などに苦しむ者も続出。参加したスタッフの半数がひと月足らずで脱落していきました。自分は頑張り抜けるだろうか……。そんな時、彼を支えくれたある言葉がありました。自分が作った仮設住宅の鍵を現地の人に手渡した時、家族の母親は大野さんの瞳を真直ぐに見てこう言いました。「住む場所を作ってくれてありがとう」。その眼差しに大野さんは震えました。そして、体中をひとつの確信が貫いたのです。病気や震災から生き延びることが出来たのは、このためだったのかもしれない。
 大野「苦労したけれども報われた。達成感を感じたので、もう少しやってみたいと思いました」。
 レールに乗って海外留学をすれば、やがてはエリート建築士。けれど本当にそれでいいのか、俺は家を求める目の前の人々を置き去りに出来るのか……。
 気がつけば、3カ月の期限はとうに過ぎ、海外留学は無効に。ひたすらスリランカで家を建てながら、5年もの歳月が経過していました。

再びの転機、そしてハイチへ
 そして2010年、大野さんに再び転機が。それこそがハイチで起きた大地震だったのです。今自分がいる、スマトラ沖大地震で被害にあったスリランカでの仮設住宅建築は一段落している。ならば今度はハイチへ行こう。
 しかしハイチはスリランカ以上に過酷な現場でした。
 大野「死体を見ました、2010年、ガレキ処理をしながら仮設住宅を作っていましたので」。
 ガレキをどければ無数の亡骸。悲惨な光景に直面し続けて、心もふさぎ込んだといいます。でもそんな切なさを忘れさせてくれたのは、人々のたくましさでした。それはハイチで最初に手掛けた356棟の仮設住宅を作り上げた時のこと。新しい暮らしを手に入れた住民たちの何の変哲もない日常に強く励まされたのです。
 大野「生活感が出るのが嬉しいですよね。人が住み始めると食べるためにまずは料理をするんですけど、野菜を煮たりする匂いが立ち込めたり、洗濯物を干したり、住まいらしくなってきます。その新しい一歩に協力出来たかな、とそういう風景がいちばん心に響きました」。
 余命宣告があり、阪神淡路大震災がありました。一度は諦めた命です。それを思えばどんな辛さにも耐えられます。
 たとえちっぽけでも「家」があれば希望を持てる、と大野さん。もともとはでっかいビルを建てるのが夢だった。それが今は仮設住宅を建築。でもこれが自分の本当にやりたかったことだ、と今では信じられる。
 人々の笑顔は大野さんを奮い立たせるエネルギーです。遠く離れた中米ハイチ。穏やかな日常を待ちわびる人たちのために、小さな家を建て続ける一人の日本人がいました。
 
psfuku
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