「以文会友」の額

2015年04月07日(火)更新
 
“母校創立120周年を迎えて”、貴重な資料を紹介します! ―第2弾―
 
 久敬会館会議室に川端康成(中18)揮毫の「以文会友」の額が飾られている。これは昭和40年の70周年来校時に川端が書き残した「書」がきっかけになり、ノーベル賞受賞記念碑のために改めて川端に書き直してもらったものをもとにしている。

 昭和40年10月2日、創立70周年記念式典が新体育館で挙行され、その翌日の3日に川端康成・大宅壮一(中21)による記念講演会が新体育館で開催された。この講演会後に両氏に色紙を書いていただいた。大宅壮一は「男の顔は履歴書である」で、川端康成は「以文会友」であった。
 その後、川端の色紙の現物は所在が分からず、コピーしか残っていなかったが、その色紙をもとに、創立90周年には鉄製のペン皿、100周年には複製色紙を作って記念品として販売した。

 久敬会館の大きな額「以文会友」は、上記の色紙とは別の書である。川端が昭和43年にノーベル賞を受賞した記念として、翌44年に久敬会が当時の正門(現、北門)を入って右手の所に「以文会友」の碑を建立した。この碑の建立に当たり、その時の会長と理事長であった森脇茂(中36)・上下真一(中38)が鎌倉の川端邸を訪問し、川端に揮毫を直接依頼された。森脇元会長は当時のことを「あの独特のぎょろ眼で、しばらく言葉なくじっと睨まれて怖かった」と回想している。

 昭和60年は90周年の年で、記念事業として久敬会館の改造・改装を行うことになっていた。この準備のため、会館倉庫を整理していた当時の事務局長の辻本昭信(高16)が、一字一字別々に書かれた「以文会友」の書と「川端康成」の名を書いた計5枚の紙を包んだものを発見した。埃にまみれ、紙は汚れて一部は虫に食われていたが、これをなんとか修復して久敬会館に飾れないか、と辻本は考えた。当時、辻本が顧問をしていた生物部員の木村清美(旧姓斎藤 高38)のお父様が表具師をしておられたのを知って相談したところ、この修復の仕事を誇りと思っていただき、丁寧な修復と立派な欅製額の制作を全く儲けのない金額でやっていただいた。
 久敬会館で開催された90周年記念行事「母校90年の歩み」で、川端康成のノーベル賞記とメダルを展示するために、第15代山田勝久校長が、鎌倉にお住まいの夫人にお願いに行く際に、落款がなかった前述の額字を持参してもらい、落款を捺していただいた。川端邸で多くの落款が並べられ、「この中からどれでも」と言っていただいたので、その場で選び、目の前で夫人に捺してもらった、と山田校長は辻本に語った。なお、後日、川端夫人はノーベル賞記とメダルを持って鎌倉より来校いただき、ガードマン立会いの下、久敬会館で展示された。

 「以文会友」は『論語』にある言葉で、川端は「文ヲ以テ友ト会ス」と読んでいる。川端は昭和44年10月26日、当時の正門前で行われた「川端文学碑の除幕式」での挨拶の中で、次のように語っている。
《碑文の「以文会友」-これは「論語」にある言葉でありまして、「文」は文学という狭い意味ではなく、まあ、文化一般、あるいは道徳・倫理、あるいは誠の心・美しい心・優しい心―そういうようなものによりまして”友“と会いまして、友人をつくって、つまり人間が結ばれる。結ばれ会うというような意味で、これは非常に広い色々な意味に解釈されると思うのであります。》
 まさに、久敬会に最もふさわしい字句であるといえよう。
psfuku

「自彊不息」の額について

2015年04月06日(月)更新
「自彊不息」の額について

120周年記念事業として行っている、久敬会館保管史料の整備の一環として、「大道無門」と「自彊不息」の二つの扁額の修復を平成28年3月に専門の業者に依頼した。
 
修復された「自彊不息」の額
 
高碕達之助(中4)揮毫の「大道無門」については、すでに解説してあるので、「自彊不息」の扁額について説明したい。 「自彊不息(じきょうやまず)」とは『易経』にある言葉で、「易に曰く、天行は健なり、君子は以て自ら彊(つと)めて息(や)まず」、つまり、「天地の運行が健やかであるように、君子も自ら努め励み怠ることはない」という意味である。ここから、「天つ空見よ 日月も星も 其時違へず その道めぐる 我等も各々 力行やまず……」で始まる本校の校歌が生まれたのである。
この文言を取り入れて、多門力蔵教諭が校歌を作詞した経緯については、『茨木高校百年史』で詳しく考証されているので、そこをお読みいただきたい。
ちなみに、旧制中学校や旧制女学校で「自彊不息」を校訓にしているところもあるようで、多門力蔵の前任校である三重県第三中学校(現、三重県立上野高校)の校訓が「自彊不息」であった。また、大阪府立今宮高校同窓会の名称は「自彊会」である。
「創立70周年記念誌」ある、「自彊不息」の額が飾られた図書館

この「自彊不息」の扁額がいつ、どのような経緯で揮毫されたのは不明だが、旧本館にあった図書館に飾られていたことは確かである。昭和30年の創立60周年の記念事業として、旧本館2階に図書館が新設された。この図書館は、老朽化した旧本館の取り壊しによって、昭和47年4月に講堂に移転するまで使用された。その図書館に飾られていたのが「自彊不息」の扁額であり、『創立70周年記念誌』に、図書館で学習している生徒の写真とともに、この「自彊不息」の扁額が写っている。
「自彊不息」の額の署名と印章
改めて扁額を見ると、署名には「寒松叟」とある。「叟」は老人のこと。あるいは自らを謙遜して言う語。2つの印章は「寒松軒」「全慶」と判読できる。
とすれば、揮毫者は、南禅寺の第9代管長で、花園大学や大谷大学で教授を務めたこともある、禅僧の柴山全慶(明治27年~昭和49年)ではないかと推測できた。「寒松軒」は柴山全慶の室号である。
過日、そのことを確かめるために額の写真を持って南禅寺宗務本所を訪れたところ、全慶の書に間違いないとのこと。そして、管長時代なら「寒松叟」の前に「南禅」の2文字をつけるから、この書は管長になる以前(管長就任は昭和34年)に書かれたものだ、とのご教示をいただいた。全慶は久敬会員ではないが、その年齢は茨高の周年と同じだから、30代の書ということになる。
このように揮毫者は判明したが、いつ、どのような経緯で揮毫を依頼したのは、記録がなく、また、当時の教職員もほとんど亡くなられているので、よく分からない。

平成28年4月30日、修復された扁額が届いた。劣化が進み、くすんでいた扁額が、今書かれたばかりのように新たに蘇ったことを喜びたい。
psfuku
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