茨木高校にある“荘川桜二世”

2015年08月04日(火)更新
 
茨木高校にある“荘川桜二世”
 
 茨高には荘川桜二世の木がある。植えられているのは、プール北側に1本、自転車置き場南側に2本、桜通りに面した法面に2本、久敬会館西側入口付近に1本の計6本である。ソメイヨシノよりも少し早く開花する荘川桜は毎年美しい花をつけ、生徒や訪れた卒業生の目を楽しませている。
 この荘川桜は、岐阜県御母衣ダムの湖畔に立つ樹齢450年のエドヒガンの実生である。ダム建設に伴い、湖底に沈む運命にあった、光輪寺と照蓮寺の2本の巨大な桜を、ダムを見下ろす高台へと移植したのが、当時の初代電源開発総裁の高碕達之助(中4)だった。 その縁を大切にするために、平成10年の新校舎竣工を記念して、岩橋昭第19代校長と石高治夫(中32)の尽力によって高碕ゆかりの荘川桜の苗木6本が植えられたのである。石高は、高碕が創業した東洋製罐に高碕から直接声をかけられ勤めた久敬会員である。
 地元の人々に愛されてきた桜を救おうとした、高碕の情熱に深い感銘を受けた、生物科の北村正信教諭が授業で荘川桜の話をすると、大きな反響があったという。
 以下は平成11年発行の「久敬会報」第53号に掲載された、北村正信生物科教諭による文章である。
 高碕達之助の思いと共にこの桜を大切に守り育てたい。
 
「荘川桜」と茨高生
生物科教諭 北村正信 (「久敬会報」第53号)
 平成10年3月、校庭の数カ所に「荘川桜」の苗木が植えられた。荘川桜とは、岐阜県北部の御母衣ダムの水底に沈む運命にあった2本の巨大な老山桜のことである。
 これらの山桜の命を救う決断をしたのが、当時の電源開発総裁で茨木中学4回卒業の高碕達之助であった。この話は現在ではほとんど忘れ去られている。ましてやその「御母衣の桜」の移植に技術的な指導をした、桜博士の異名をとる笹部新太郎なる人物など知る由もない。笹部は、日本文化に多大な貢献をしてきた山桜の保護育成と品種改良に、91年の全生涯と全財産を捧げた人で、水上勉の『櫻守』の竹部は彼をモデルにしている。
 私は、高碕が「御母衣の桜」の移植について笹部に白羽の矢を立てた背景や、高碕の命を尊ぶ情熱に負けた笹部が、樹齢400年の老桜の移植を引き受け決死の覚悟で臨んだところ、奇跡的にも2本とも活着した話などを、私の感動と共に生徒たちに伝える機会を探った。幸いにも今年のソメイヨシノの開花期は長かったので、花の構造観察の時間を設けて、その折に荘川桜の話をした。勿論、高碕と笹部が学生時代に恩師から受けた言葉がその後の人生を決定づけた話や、彼らの子供時代のエピソードなども一緒に話した。
 生徒たちの反響は予想外に大きく、「高碕達之助のような人が先輩であることを聞き、茨高は単に古いだけではなくて誇りがもてた」とか、「このような偉大な人でも、子供の頃は悪戯坊主であったことを知ってホッとした」とか、「ぜひ御母衣ダムを訪れて、荘川桜をこの目で見てみたい」などと感想に書いている。また、実際に家族で見に出かけた生徒もあったほどである。
 このように、桜が縁で高碕氏のほんの一部を紹介しただけであるにもかかわらず、これほどまでに生徒たちの心を揺り動かした「高碕達之助」を、私は後世に伝えていかなくてはならないと痛感した。
 彼は次のような言葉をダム湖畔に刻んでいる。
 「……人の力で救えるものは、なんとかして残してゆきたい。古きものは古きがゆえに尊いのである」
psfuku

「質実剛健」の額

2015年08月03日(月)更新
「質実剛健」の額
 
 
“母校創立120周年を迎えて”、貴重な資料を紹介します!
~ 第3弾 
 
 久敬会館会議室に「質実剛健」の額が飾られている。揮毫者は幣原坦(しではら・たいら)だが、今やその名を知る人はほとんどいないだろう。
 幣原坦は、幣原喜重郎の兄である。久敬会員ではない。

 幣原喜重郎は大正末期から昭和初期にかけて、外務大臣として平和外交を推進し、国際協調路線を唱えたが、軍部から「軟弱外交」と批判を受け、辞任に追い込まれた。幣原喜重郎が表舞台に返り咲くのは、終戦直後の昭和20年。昭和天皇の命を受けて首相に就任し、GHQの占領政策の下で憲法草案の作成に取り組んだ。

 幣原坦は政治家ではなく、東京帝国大学教授、広島高等師範学校長を経て、昭和3年に台北帝国大学総長となった歴史学者。晩年は生まれ故郷の門真市で過ごし、昭和28年6月、84歳で亡くなっている(『門真市史』第六巻による)。

 久敬会館に飾られている、この「質実剛健」の額が、いつ、どのような縁で揮毫されたのかはよく分からない。辻本昭信(高16)が事務局長時代に、この額の表装を新たにする時に、当時の会長であった森脇茂(中36)に聞いたところでは、講堂の一方の側にあった「勤倹力行」の額と対になるように書いてもらった、という。卒業生である森脇茂は、昭和23年4月から昭和53年3月まで母校の茨木高校の国語科教員として勤めている。ただ残念なことに、いつ書いてもらったのか、という肝心な点の話がその時になされていない。

 『創立90周年記念誌』を見ると、昭和10年11月に行われた新校舎落成式の講堂の写真が掲載されているが、辻本が森脇から聞いた、その回想を裏付けるように、そこには向かって左に「勤倹力行」の額しか写っていない。そして同じく『創立90周年記念誌』にある、昭和30年10月に挙行された創立60周年記念式での講堂写真には、対になるように、向かって右に「質実剛健」の額が飾られているのがはっきりと写っている。

 幣原坦が亡くなるのは、先に記したように昭和28年のことだから、この額が揮毫されたのは、昭和10年から昭和28年の間ということになる。もう少し期間を絞るために推測してみると、坦が枢密顧問官を辞したのが昭和22年5月で、その後郷里の門真に帰っているので、この額もその頃に書かれたのかもしれない。
『茨木高校百年史』にも記述がなく、また戦前の「会報」は昭和18年が最後で、「久敬会報」の復刊第1号が刊行される昭和28年まで会報の空白期間があるので、詳細は不明である。
psfuku

「大道無門」の額

2015年04月07日(火)更新
 
“母校創立120周年を迎えて”、貴重な資料を紹介します!
 
 久敬会館会議室に高碕達之助(中4)揮毫の「大道無門」の額が飾られている。昭和30年に本校の卒業生として初めて国務大臣に就任したのが高碕達之助である。その慶賀の年にちょうど本校も創立60周年という記念すべき節目を迎えたので、昭和30年1月27日に高碕の記念講演会が行われた。高碕は茨中時代の思い出、現下の日本情勢、そして野口英世博士の母堂の手紙をもとに青少年の将来の指針を示し、会場の在校生やPTA、久敬会員有志に多大の感銘を与えた。

 昭和30年2月発行の「久敬会報 第3号」の記事には、この「大道無門」が記念講演会当日に揮毫された、との記述があるが、額には「乙未中秋」とあるから季節が合わない。ちなみに「乙未(きのとひつじ)」は昭和30年の干支である。これは、あるいは、10月20日の60周年記念式典の時に揮毫されたのかもしれず、それなら季節は合うが、詳細は不明である。

 なお、校長室にも同じ額(それにも「乙未中秋」と書かれている)がある。
「大道無門」とは、『無門関』にある、何ものにも縛られず制約も受けない、絶対自由の境地を意味する禅語である。
psfuku

「以文会友」の額

2015年04月07日(火)更新
 
“母校創立120周年を迎えて”、貴重な資料を紹介します! ―第2弾―
 
 久敬会館会議室に川端康成(中18)揮毫の「以文会友」の額が飾られている。これは昭和40年の70周年来校時に川端が書き残した「書」がきっかけになり、ノーベル賞受賞記念碑のために改めて川端に書き直してもらったものをもとにしている。

 昭和40年10月2日、創立70周年記念式典が新体育館で挙行され、その翌日の3日に川端康成・大宅壮一(中21)による記念講演会が新体育館で開催された。この講演会後に両氏に色紙を書いていただいた。大宅壮一は「男の顔は履歴書である」で、川端康成は「以文会友」であった。
 その後、川端の色紙の現物は所在が分からず、コピーしか残っていなかったが、その色紙をもとに、創立90周年には鉄製のペン皿、100周年には複製色紙を作って記念品として販売した。

 久敬会館の大きな額「以文会友」は、上記の色紙とは別の書である。川端が昭和43年にノーベル賞を受賞した記念として、翌44年に久敬会が当時の正門(現、北門)を入って右手の所に「以文会友」の碑を建立した。この碑の建立に当たり、その時の会長と理事長であった森脇茂(中36)・上下真一(中38)が鎌倉の川端邸を訪問し、川端に揮毫を直接依頼された。森脇元会長は当時のことを「あの独特のぎょろ眼で、しばらく言葉なくじっと睨まれて怖かった」と回想している。

 昭和60年は90周年の年で、記念事業として久敬会館の改造・改装を行うことになっていた。この準備のため、会館倉庫を整理していた当時の事務局長の辻本昭信(高16)が、一字一字別々に書かれた「以文会友」の書と「川端康成」の名を書いた計5枚の紙を包んだものを発見した。埃にまみれ、紙は汚れて一部は虫に食われていたが、これをなんとか修復して久敬会館に飾れないか、と辻本は考えた。当時、辻本が顧問をしていた生物部員の木村清美(旧姓斎藤 高38)のお父様が表具師をしておられたのを知って相談したところ、この修復の仕事を誇りと思っていただき、丁寧な修復と立派な欅製額の制作を全く儲けのない金額でやっていただいた。
 久敬会館で開催された90周年記念行事「母校90年の歩み」で、川端康成のノーベル賞記とメダルを展示するために、第15代山田勝久校長が、鎌倉にお住まいの夫人にお願いに行く際に、落款がなかった前述の額字を持参してもらい、落款を捺していただいた。川端邸で多くの落款が並べられ、「この中からどれでも」と言っていただいたので、その場で選び、目の前で夫人に捺してもらった、と山田校長は辻本に語った。なお、後日、川端夫人はノーベル賞記とメダルを持って鎌倉より来校いただき、ガードマン立会いの下、久敬会館で展示された。

 「以文会友」は『論語』にある言葉で、川端は「文ヲ以テ友ト会ス」と読んでいる。川端は昭和44年10月26日、当時の正門前で行われた「川端文学碑の除幕式」での挨拶の中で、次のように語っている。
《碑文の「以文会友」-これは「論語」にある言葉でありまして、「文」は文学という狭い意味ではなく、まあ、文化一般、あるいは道徳・倫理、あるいは誠の心・美しい心・優しい心―そういうようなものによりまして”友“と会いまして、友人をつくって、つまり人間が結ばれる。結ばれ会うというような意味で、これは非常に広い色々な意味に解釈されると思うのであります。》
 まさに、久敬会に最もふさわしい字句であるといえよう。
psfuku

「自彊不息」の額について

2015年04月06日(月)更新
「自彊不息」の額について

120周年記念事業として行っている、久敬会館保管史料の整備の一環として、「大道無門」と「自彊不息」の二つの扁額の修復を平成28年3月に専門の業者に依頼した。
 
修復された「自彊不息」の額
 
高碕達之助(中4)揮毫の「大道無門」については、すでに解説してあるので、「自彊不息」の扁額について説明したい。 「自彊不息(じきょうやまず)」とは『易経』にある言葉で、「易に曰く、天行は健なり、君子は以て自ら彊(つと)めて息(や)まず」、つまり、「天地の運行が健やかであるように、君子も自ら努め励み怠ることはない」という意味である。ここから、「天つ空見よ 日月も星も 其時違へず その道めぐる 我等も各々 力行やまず……」で始まる本校の校歌が生まれたのである。
この文言を取り入れて、多門力蔵教諭が校歌を作詞した経緯については、『茨木高校百年史』で詳しく考証されているので、そこをお読みいただきたい。
ちなみに、旧制中学校や旧制女学校で「自彊不息」を校訓にしているところもあるようで、多門力蔵の前任校である三重県第三中学校(現、三重県立上野高校)の校訓が「自彊不息」であった。また、大阪府立今宮高校同窓会の名称は「自彊会」である。
「創立70周年記念誌」ある、「自彊不息」の額が飾られた図書館

この「自彊不息」の扁額がいつ、どのような経緯で揮毫されたのは不明だが、旧本館にあった図書館に飾られていたことは確かである。昭和30年の創立60周年の記念事業として、旧本館2階に図書館が新設された。この図書館は、老朽化した旧本館の取り壊しによって、昭和47年4月に講堂に移転するまで使用された。その図書館に飾られていたのが「自彊不息」の扁額であり、『創立70周年記念誌』に、図書館で学習している生徒の写真とともに、この「自彊不息」の扁額が写っている。
「自彊不息」の額の署名と印章
改めて扁額を見ると、署名には「寒松叟」とある。「叟」は老人のこと。あるいは自らを謙遜して言う語。2つの印章は「寒松軒」「全慶」と判読できる。
とすれば、揮毫者は、南禅寺の第9代管長で、花園大学や大谷大学で教授を務めたこともある、禅僧の柴山全慶(明治27年~昭和49年)ではないかと推測できた。「寒松軒」は柴山全慶の室号である。
過日、そのことを確かめるために額の写真を持って南禅寺宗務本所を訪れたところ、全慶の書に間違いないとのこと。そして、管長時代なら「寒松叟」の前に「南禅」の2文字をつけるから、この書は管長になる以前(管長就任は昭和34年)に書かれたものだ、とのご教示をいただいた。全慶は久敬会員ではないが、その年齢は茨高の周年と同じだから、30代の書ということになる。
このように揮毫者は判明したが、いつ、どのような経緯で揮毫を依頼したのは、記録がなく、また、当時の教職員もほとんど亡くなられているので、よく分からない。

平成28年4月30日、修復された扁額が届いた。劣化が進み、くすんでいた扁額が、今書かれたばかりのように新たに蘇ったことを喜びたい。
psfuku

110周年記念写真集

2013年05月09日(木)更新

110年に渉る記録写真に刻まれた学舎と人。


この写真集「学校The Story of Our School」 は第四尋常中学ー茨木中学-三島野高校-茨木高校の110年に渉る歴史を校舎、生徒、教師を撮影した記録写真で構成しています。1995年平成7年に久敬会より発行した記念誌「天つ空見よ」を母体に、さらに、紹介されていない写真、また、新たに撮影した現在の新校舎の姿を加えてご覧いただく事ができる様に編集しました。100周年記念誌「天つ空見よ」の記事と合わせてご覧いただければ、より詳しくその時々の姿を確認していただけると思います。
開校以来現在に至るまでの校舎(木造校舎、旧校舎、現校舎)の変遷に合わせて構成した懐かしさを感じられる写真集です。


psfuku
このページのトップへ