「質実剛健」の額

2015年08月03日(月)更新
「質実剛健」の額
 
 
“母校創立120周年を迎えて”、貴重な資料を紹介します!
~ 第3弾 
 
 久敬会館会議室に「質実剛健」の額が飾られている。揮毫者は幣原坦(しではら・たいら)だが、今やその名を知る人はほとんどいないだろう。
 幣原坦は、幣原喜重郎の兄である。久敬会員ではない。

 幣原喜重郎は大正末期から昭和初期にかけて、外務大臣として平和外交を推進し、国際協調路線を唱えたが、軍部から「軟弱外交」と批判を受け、辞任に追い込まれた。幣原喜重郎が表舞台に返り咲くのは、終戦直後の昭和20年。昭和天皇の命を受けて首相に就任し、GHQの占領政策の下で憲法草案の作成に取り組んだ。

 幣原坦は政治家ではなく、東京帝国大学教授、広島高等師範学校長を経て、昭和3年に台北帝国大学総長となった歴史学者。晩年は生まれ故郷の門真市で過ごし、昭和28年6月、84歳で亡くなっている(『門真市史』第六巻による)。

 久敬会館に飾られている、この「質実剛健」の額が、いつ、どのような縁で揮毫されたのかはよく分からない。辻本昭信(高16)が事務局長時代に、この額の表装を新たにする時に、当時の会長であった森脇茂(中36)に聞いたところでは、講堂の一方の側にあった「勤倹力行」の額と対になるように書いてもらった、という。卒業生である森脇茂は、昭和23年4月から昭和53年3月まで母校の茨木高校の国語科教員として勤めている。ただ残念なことに、いつ書いてもらったのか、という肝心な点の話がその時になされていない。

 『創立90周年記念誌』を見ると、昭和10年11月に行われた新校舎落成式の講堂の写真が掲載されているが、辻本が森脇から聞いた、その回想を裏付けるように、そこには向かって左に「勤倹力行」の額しか写っていない。そして同じく『創立90周年記念誌』にある、昭和30年10月に挙行された創立60周年記念式での講堂写真には、対になるように、向かって右に「質実剛健」の額が飾られているのがはっきりと写っている。

 幣原坦が亡くなるのは、先に記したように昭和28年のことだから、この額が揮毫されたのは、昭和10年から昭和28年の間ということになる。もう少し期間を絞るために推測してみると、坦が枢密顧問官を辞したのが昭和22年5月で、その後郷里の門真に帰っているので、この額もその頃に書かれたのかもしれない。
『茨木高校百年史』にも記述がなく、また戦前の「会報」は昭和18年が最後で、「久敬会報」の復刊第1号が刊行される昭和28年まで会報の空白期間があるので、詳細は不明である。
psfuku
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