藤井泰則著『杉本伝(ツタエ)』紹介

2019年09月18日(水)更新
藤井泰則著『杉本伝(ツタエ)
 ~水泳日本生みの親、高石勝男とオリンピックへ~』の紹介

 2019年7月に刊行された『杉本伝(ツタエ) 水泳日本生みの親、高石勝男とオリンピックへ』は、日本近代水泳の礎を築いた、旧制茨木中学校の杉本伝教諭と茨木中学校のプールの物語です。著者は茨木高校久敬会の事務局次長である藤井泰則(高17回)氏。
 
 藤井氏は親しみを込めて「伝(でん)さん」と呼び、物語を綴ります。
 本書は「序章 水泳日本、世界の覇王となる」という印象深いシーンから書き出されます。1932(昭和7)年7月30日から16日間、アメリカのロサンゼルスで開催された第10回オリンピックの水泳競技で、男子水泳は競泳6種目のすべてでメダルを獲得し、中でも圧巻は100メートル背泳の表彰式でした。

《なんと三本の日の丸が高々と翻(ひるがえ)ったのだ。快晴のロサンゼルスの空に美しく映える日章旗は、見る日本人の心をうち震わせた。》

 そして、日本では号外が配られます。

《8月14日、東京朝日新聞は「水泳日本・世界の覇王となる」と大きな見出しをつけ、号外を配った。》

 もし、来年の2020年の東京オリンピックで、このような光景が出現したら、きっと日本中は歓喜の渦に包まれるに違いありません。まして、その中に、茨木高校関係者がいたとしたら、茨木高校や久敬会にとって大きな誇りになるでしょう。実は、ロサンゼルスで揚がった3本の日章旗のうち、一本は銀メダルの入江稔夫(としお)(中30回)氏を讃えるものでした。
 この「世界の覇王となった水泳日本」の基礎を作ったのが、杉本伝教諭であり、茨木中学校のプールだったのです。本書の帯的な箇所に印刷された、次の言葉がすべてを物語っています。

《クロール、飛込み、水球…日本近代水泳のすべては大阪・茨木のプールから始まった。》

 著者の藤井氏は、杉本教諭の生い立ち、そして杉本教諭が主導し、4年生の川端康成も1年生の大宅壮一も作業に参加した、日本で初めての学校プールの築造、さらにはそのプールでのクロール泳法の研究や全国大会での茨中生の活躍、さらにはオリンピックでの日本人選手の活躍の様子を、残された史料を綿密に読み込み、生き生きと活写しています。よくもこれだけ調べられたものだ、と感嘆するほどの徹底ぶりです。
 本書執筆の動機は「終わりに」で語られていることに尽きます。

《執筆の動機は杉本伝氏を本にして記録にとどめたいことにあったが、NHKの大河ドラマで田畑政治を水泳の代表としていることに対する軽い反発もあったことも認めておこう。金栗四三をオリンピックの陸上の代表とすることに全く異論はないが、水泳の代表は我らの大先輩である杉本伝氏の方が余程ふさわしい。クロールを普及させたのは田畑政治では断じてない。杉本氏がクロールを研究して普及させ、高石勝男氏がクロールを完成させたのだ。》

 まさにそのとおりです。
 1939(昭和14)年に茨中を退職した「伝さん」は、戦後の1952(昭和27)年に、久敬会の初代会長に推されます。そして、1979(昭和54)年に生涯を閉じました。91歳でした。
 終章は、1985(昭和60)年の「日本近代水泳発祥之地」記念碑の除幕式の様子と、1995(平成7)年の茨高創立100周年の年に完成した屋内プールの記述で締め括られます。

《伝さんがパリオリンピックに行った時、またその後の欧米視察旅行の時、あんなにも羨(うらや)ましく思い憧(あこが)れた屋内プールが70年の時空を経て、ようやく茨高にその姿を現したのだった。》

 ここまで読んできて、読者は深い感慨と共にページを閉じることでしょう。
 本書が多くの久敬会会員や水泳の関係者に読まれることを願ってやみません。
 なお、本書は一般の書店では取り扱っていませんので、ご購読のご希望の方は、直接、通信販売のアマゾンでご購入ください。 (2019年9月 広報委員会記)
 
◆著書の一部「おわりに」  ◆著書の一部「はじめに」
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毎日新聞「わたしの母校」に茨木高校の卒業生が連載されます

2018年10月24日(水)更新
毎日新聞「わたしの母校」に茨木高校の卒業生が連載されます
 
11月~12月の毎週火曜日に連載されます。
毎回1名の方を取材した記事が掲載され、7~8人の卒業生が登場される予定です。

クリックすると拡大します。
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監督・脚本が久敬会員の映画紹介

2018年05月14日(月)更新

監督・脚本が久敬会員の映画紹介

 監督・脚本が久敬会員の映画
「返還交渉人 いつか、沖縄を取り戻す」の紹介

6月30日から全国の単館劇場で公開されます  

 「返還交渉人 いつか、沖縄を取り戻す」は、2017年8月12日にNHKのBSで放送されたドラマを再編集して、100分の映画版として上映するもので、6月30日から東京ポレポレ東中野、7月7日から沖縄桜坂劇場他、順次全国の単館劇場で公開されます(大阪での公開時期は今のところ未定)
 
 監督はNHKのディレクターの柳川強(高35回)氏、脚本は西岡琢也(高27回)氏で、久敬会員が監督と脚本家としてコンビを組んで映画作品を作り上げるのは、おそらく初めてのことでしょうから、久敬会員の皆様にお知らせいたします。
 
 映画は米軍の「理不尽な占領」と闘い続けた実在の外交官である、千葉一夫の知られざる真実の物語を描きます。千葉一夫は対米交渉、対沖縄折衝の両面で大きな役割を担い、「鬼の千葉なくして沖縄返還なし」と称された、伝説の外交官です。

 主人公の千葉一夫を演じるのは井浦新、そしてその妻の惠は戸田菜穂。井浦と戸田は初共演とは思えないほど息が合い、激しい返還交渉に挑んだ男とそれを支える妻が育んだ夫婦愛を熱演しました。尾美としのり、佐野史郎、石橋蓮司、そして先頃惜しまれて亡くなった大杉漣などのベテラン俳優陣が、物語に重厚感とリアリティを付与していますから、見応えのある、骨太の「社会派エンターティメント映画」になっているそうです。
 
機会があれば、是非ご観賞ください。
  ◆http://cinefil.tokyo/_ct/17159255
  (ネット上でリリース発表となっています↑)

配給・宣伝の問い合わせ先は以下のとおり。
太秦株式会社 配給:小林三四郎 宣伝:岩本玲、今村花
〒151-0051 東京都渋谷区千駄ヶ谷 5-16-10 代々木エアハイツ 301
 tel:03-5367-6073 fax:03-6903-6970 mail : info@uzumasa-film.com

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「高碕達之助に学ぶ会」発足記念講演会参加記

2018年02月27日(火)更新
「高碕達之助に学ぶ会」発足記念講演会参加記
 
 2018年2月24日(土)に「高碕達之助に学ぶ会」発足記念講演会が、高槻市生涯学習センターで開催されました。
 以下はその参加記です。
 講演会が始まる2時前には、300名収容の多目的ホールはほぼ満席で、高碕達之助(中4回)に寄せる市民の関心の高さに驚きました。
 私は中村事務局長に確保していただいた席に座りましたが、岩橋昭元校長をはじめ、何人かの久敬会関係の方もお越しでした。
 基調講演は、元朝日新聞記者で『日中をひらいた男 高碕達之助』(この本についてはすでに紹介済み)の著者である牧村健一郎氏。牧村氏は企業家であり、偉大な政治家であった高碕達之助の事跡を5つのキーワード【現場主義・現実主義・ウインウイン・チャレンジ精神・人間力】で、分かりやすく、かつ熱っぽく語られました。
 高碕達之助については、おおよそのことは知っているつもりでしたが、改めてその偉大さと人間的魅力を再認識した講演内容でした。
 それを受けたパネルディスカッションでは、久敬会前会長の大木令司(高3回)氏と旧職員の北村正信氏がパネラーの一員として、高碕達之助の人となりについて興味深いエピソードを交えながら話され、私も聴衆の一員として聴き入っていました。
 大木・北村氏を含め、どのパネラーも語りたいことがいっぱいあるらしく、どなたも持ち時間をオーバー。その後、会場から活発な意見や質問があり、パネラーが答えるたびに大きな拍手が起こりました。
 最後のまとめとして、コーディネーターの島津淳子氏が、高碕達之助のことをもっと世間に知ってもらうために、NHKの連続テレビ小説でぜひ取り上げてほしい、と発言されると、会場は万雷の拍手。
 気づけば5時近くになっていました。   
広報委員長 岩井 英雅(高20)記
 
高碕達之助(中4回)のプロフィール
  • 1885年(明治18)高槻市柱本に生まれる
  • 1917年(大正6) 東洋製罐設立
  • 1953年(昭和28)電源開発初代総裁としてダムで水没する荘川桜を救う
  • 1954年(昭和29)69歳で鳩山一郎内閣の国務大臣に就任
  • 1962年(昭和37)中国とLT貿易を結ぶ
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高碕達之助に学ぶ会発足記念講演会紹介

2018年02月19日(月)更新
「高碕達之助に学ぶ会」発足記念講演会を紹介します。
  • とき  2月24日(土)14:00(高碕翁命日)。
  • ところ 高槻市総合センター2F(入場無料)。
  • 主催  「高碕達之助に学ぶ会」
大木令司氏(元久敬会会長・高3回)がパネルディスカッションに参加されます。
※画像クリックで拡大→

 高碕達之助氏(中4回)は、120周年記念展示「資料でつづる120年の歩み」のなかの「著名な卒業生」コーナーで紹介されました。(2015年秋、久敬会館で開催)
久敬会ホームページの「周年記念行事」からご覧いただけます。
 
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京都大学名誉教授 村上陽太郎(中36)氏の 白寿のお祝い

2016年07月21日(木)更新
ご挨拶される村上名誉教授。
 中36回で、京都大学名誉教授の村上陽太郎氏は、非鉄金属材料の基礎と応用に関して、金属組織学的観点から研究し、非鉄金属材料学の分野で多大の貢献をされた方である。その村上陽太郎氏の白寿(99歳)のお祝いが、2016年2月27日に京都大学構内で行われ、教え子など110名が集った。
 当日は、 祝賀会に先立って、 「白寿を迎えて-私の歩んだ道」と題して、 約1時間の講演があり、 村上陽太郎氏は、 自らの歩んだ道を語られたが、 その中で、茨木中学校での体験が人間形成に大きく寄与した、 と熱く語られた。
 冊子にまとめられた、14章で構成された講演録を読むと、氏のこれまでの活躍の様子がよく分かるが、その中から、主に茨木中学校に関係する箇所を抜き出しておきたい。
 
1)  序に代えて
ご講演中の村上名誉教授。
 ……昭和の初めに、田舎の小学校から、町の旧制中学校に進学した。……毎日、中学校まで、片道5㎞程の田舎道を数人の上級生と歩いて通学した。……往復には、歩きながら、予習や復習が出来て、都合がよかった。……
 ……中学校の先生方は、皆人格、識見共に立派な方で、真剣に躾教育をして下さった。
尾池虎三郎先生には、特にお世話になった。……
 
2)  感謝したい茨木中学校で受けた教育
 北風の吹く寒い校庭を白い体操服で裸足で我々の先頭を走っておられる(杉本傳)先生の姿が浮かんでくる。 …… 小学校時代弱かった身体も 毎日5㎞位の道を徒歩通学していたお陰で丈夫になり、健脚にもなっていたので、先生には随分目をかけていただいた。……
お祝いの乾杯をする
出席者の皆さま。
 ……尾池虎三郎、西田栄一両先生の英語の初期教育は誠に正しい方法であったと、外国語が大きい役割を果たす我々の仕事には今でも役立っていることを有難いと思っている。……
 ……当時の(茨木)中学の恩師の方々は人間的にも立派な方々であり、生徒の教育・訓育に情熱を傾けて努力して下さった。 人間人格の形成の一番重要な時期に よい恩師、 よい友人に恵まれたことを改めて心から感謝したい

3)  第三高等学校の想い出
 私が三高の理科甲類に入学したのは1939年(昭和14年)の春である。……理甲という所は英文学のような講義が多かった。……英語の読解力がその後の援けになっている。……

4)  京都大学冶金学科に進学と恩師との出遭いと研究生活
村上名誉教授を
身近で讃える方々。
 …… 当時は既に戦争の気配が濃厚であった。 大学の先輩から、 金属材料が、 航空機や兵器の製造に極めて重要である事を聞き、冶金学科の内容も教えてもらい、合金の開発のような仕事をやりたいとの気持ちが強く、(三高の)隣の京都大学の冶金科に進学を決めていた。この進学は私の人生を大きく支配することになった。……
 
5) 終わりに
 100年に近い年月を私が歩んできた道をその時々の折り目を回顧した。先ず、中学時代に足で歩いた道は、やさしい、幸福な道であった。よい学業成績と健康な長寿の元を与えて呉れた。……
 ……多くの優れた研究者の協力を得て、金属学の分野で、業績を挙げる事が出来、多数の栄誉と賞を頂くことが出来た。私の歩んできた道は、多少の紆余曲折はあったが、幸福な道であったと言えるだろう。
 
花束を受け取り、奥さまと共に喜ぶ
村上名誉教授。
同じテーブルで喜びを分かち合う
村上名誉教授ご夫妻。


【村上陽太郎氏の略歴
1942年(昭和17年)京都帝国大学工学部冶金学科卒業
1944年(昭和19年)京都帝国大学工学部助教授
1953年(昭和28年)京都大学工学部教授
1981年(昭和56年)京都大学名誉教授

【主な受賞歴
1991年(平成3年) 第35回日本金属学会賞(学会の最高賞)
1998年(平成10年)第1回軽金属学会賞(学会の最高賞)
 
村上陽太郎氏は、「久敬会報」の「天つ空見よ」に、中36回の同窓会である「十和会」の記事を、平成24年まで計27回寄稿されていた方でもある。
 
(2016年7月12日 記)
psfuku
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