吟行会
拝啓 会員の皆様にはご健勝のこととお喜び申し上げます。
さて東京久敬会第11回総会を下記の通り開催致します。多くの方のご参加をお待ちしています。
メルアドや住所が不十分で案内状が届かない方もおられます。
お友達とお誘い合わせの上多数ご参加下さいますようお願い申し上げます。
日 時 | 平成25年(2013年)6月15日(土)12時30分~15時 |
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会 場 |
品川プリンスホテル メインタワー宴会場 12階「シルバー12」
東京都港区高輪4-10-30 電話:03-3440-1111
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内容 |
(1)会務報告等及び懇親会 (2)会費:8千円 (学生割引3千円) |
出欠連絡 |
お手数ですが5月31日(金)までにメールにてご返信下さい。![]() |
会費振込 |
6月7日(金)までに会費振込をお願いします 三菱東京UFJ銀行 「店番号:港南台307 口座番号:0439209」 口座名:東京久敬会 会計 藤本英和 *お名前の後に年次をご記入下さい(例:イイダコウゾウ コウ21) |
当日支払 | 会費振込が困難な方は会場でのお支払いをお受けします。 |
朝から雨模様で心配しましたが、準備が始まる昼過ぎから雨脚が衰え、会が始まる頃には雨はやんでいました。当日は、母校で文化祭が開催されていて、見学された方もあり、2時半過ぎから続々と人が集まり、3時から総勢126名の総会が始まりました。会に先立ち、茨木市の施設をお借りしたということもあり、高15回卒で茨木市長である木本保平氏のご挨拶をいただきました。総会は、例年通り黙祷、開会のことば、会長挨拶とすすみ、今年度8月に新しく茨木高校校長として赴任された高30回卒の岡崎先生のご挨拶もいただきました。会務報告では、久敬会の組織改編の概略が述べられ、新事務局長からの挨拶もありました。
続いて、第二部のミニ講演。「茨高の大先輩高碕達之助の人と業績」と題して、吉原氏のお話がありました。様々な文献を通じて、大先輩高碕氏の業績とお人柄が紹介され、終了後にはたくさんの方々から感想のことばが寄せられました。吉原氏は「このような機会を与えていただいたことを深く感謝するとともに、また新しい情報の収集にも努めたい。」と述べておられました。
第三部の懇親会は、東京久敬会会長の中田氏のお話と乾杯で幕を開けました。約30名の現役茨高生の東京訪問時に、東京久敬会が受け入れたお話を披露され、心強い先輩のお手本を示されました。宴の途中、今年100歳になられた石高治夫氏(中32回久敬会顧問)の元気なスピーチがありました。そのかくしゃくとしたお姿に会場は騒然となりました。石高氏は、高碕達之助に直接声をかけられて東洋製罐に採用され、以後30年以上にわたって勤めあげられたこと、さらに18回訪中され周恩来首相と直接話をされ、「水を飲む時は、井戸を掘った人を忘れず」や「小異を捨てて大同につく」の言葉をかけられたことなどを話されました。その他、大木令司前会長や元校長の橋敏昭先生からもスピーチがありました。橋先生は「久敬会は自分の母校の同窓会のように親しくさせてもらって毎回出席している」とお話されました。宴会中は、卒回を超えた交流が会場内のあちらこちらで見られ、時間はまたたく間に過ぎて、恒例の校歌斉唱へ。無事に5時半に閉会となりました。それぞれ満足のうちに名残惜しく会場を後にしました。
日 時 2012年10月8日(月) 午後2時~4時
場 所 久敬会館
講 師 井田 誠夫氏(茨高旧職員)
参加者 23名
講演内容
初めに予定されていた9月30日は、台風の影響で警報が出ていたため、1週間延期されました。それでも参加を申し込まれていた人は、ほぼ全員の方がお越しいただきました。
講師の井田先生は茨高の旧職員(理科担当)で山岳部の顧問をされていたということで、当時の山岳部のメンバーから花束の贈呈がありました。講演の内容を以下に略記します。
定年後6年間、パプア・ニューギニア、ホンジュラス、ラオスでボランティアとして大学や公立・私立学校、子ども博物館の理科教育に携わる中で、“発展途上国”における教育の困難さを実感した。
最初に行ったパプア・ニューギニアでは、いまだに太平洋戦争の傷跡があちこちに残っており、人々は戦争のことを今も忘れてはいなかった。治安もあまりよくはなく、私はボランティアとして何をしたらいいのか?という思いに駆られ、なんだか空回りをしていた2年間ではなかったか?という気持ちにもなった。日本の援助でできた図書館はあっても本はなく、また毎日モデル授業を指導し、衛星を使うTV放送を作成して放映しましたが、教師自身の学力不足や放送受信の問題等、有効な活用は難しいようだった。
次に行ったホンジュラスは、一部の富裕層と大部分の貧困層からなり小学校を終えるのは6割程度である。公立学校へ通う生徒は、家庭環境も悪く貧しい生活を強いられている。一方で私立学校は割合レベルが高い所が多かった。学校の先生はできることは何でも見つけてやっていこうという姿勢が感じられ、そういう意味ではやりがいのある環境であった。国民性は喜怒哀楽の表し方が素直で、「アスタマニアーナ」「また明日やろうよ」という世界で、人々は家族や友人、今日を生きることを大切にしている。
最後にラオスに滞在した。ラオスは内戦終結と共に、1975年社会主義国として独立した。しかしその後、教育にはあまり力を入れてこなかったようで、そのため先生自身も理解できていないことが多く、生徒にとってはより一層わからないことが多い。国立ラオス大学を卒業して教員になっても、教員だけでは生活できないという状況がある。また外国の援助による理科実験器具はあっても、使い方がわからず、新品の顕微鏡が13年間封を切らずに放置されていたり、そしてここでも教師の学力の低さには驚いた。
また内戦が続いたため、小中学校の教育を満足に受けられなかった人も多く、いかに基礎学習が大切かということを知らされた。日本からもJICAを通じて援助がなされている。これからも、特に医療や教育についての先進国からの援助が必要で、ラオスの国民全体の基礎学力を上げる必要が感じられた。
いろんな国でのボランティア活動を通じて、翻って考えるに、日本の教育は果たして先進国といえるのだろうか?今後の理科教育のありかたを考えるきっかけともなった。
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天気予報が当たり、全国的に雨天になった11月17日(土)、朝8時30分過ぎになると阪急茨木バス停2番乗り場には、ハイキングの格好をして傘を差した中高年の男女が姿を見せ始め、55分発の忍頂寺行きに乗車した人は13名になった。「前日19時前のNHKの気象予報で17日午前中の降水確率が50%以上の場合は中止」としながらも、その場合でも「キリシタン史料館見学は可」であり、「当日の状況によっては希望者のみで短縮コースも検討する」と、参加予定者には事前にアナウンスされていたため「雨ニモ負ケズ」メンバーが集まった。
一行は千提寺口バス停から15分程歩いて「キリシタン遺物史料館」に到着、学芸員2名の出迎えを受けた後、「キリシタンの伝来と茨木」「隠れキリシタンと遺物発見秘話」等のビデオを鑑賞した。晴天であればダイジェスト版の予定であったが、この日は40分近くフルで見ることになった。遺物発見の最大の功労者である藤波大超氏(中18回)のユーモラスな解説・説明の場面では、思わず笑い声が起こっていた。
かなりの雨になってきたが、11名はビデオの中でも紹介されていた「キリシタン自然歩道」を歩くことを選択、「竜王山荘」へと向かった。約30分で到着、貸切り状態の中、注文した食事が出てくるまでの間を利用して全員が自己紹介、和やかな雰囲気に包まれた。雨脚は一層激しくなってきており、竜王山頂への登山は無理であろうと誰もが得心できる状況になっていたため、その場でゆっくり寛ぎ記念写真を撮った後、1時40分のバスに全員乗り込んで帰路についた。海外の山の経験者から健康目的で参加したという人まで様々で、「また機会があれば」という雰囲気の中での散会となった。
日 時 2012年12月1日(土) 午後2時~4時
場 所 久敬会館
講 師 問屋 正勝氏(高16回)
参加者 39名
講演内容
定年退職を5年後に控えたある日、スペインに巡礼路があることを知りました。スペインの西北端にある聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラを目指して毎年世界中の国々から何十万人もの人たちが歩きに来るのです。退職までの5年間、すっかり錆びついた体に鞭打って、体力づくりに励み、スペイン語の勉強に力を入れました。
そして、定年退職後、2007年から毎年スペインへ出かけて、スペインやポルトガルに広がる800kmから1000kmの巡礼路を歩くようになりました。歩いているといろいろな国の人たちに出会います。皆サンティエゴを目指して歩くいわば巡礼の同志です。その中には学校の先生、医師、看護師といった人たちも多くいました。巡礼路はロマネスク美術の宝庫と言われ、11世紀頃からの教会建築や美しい街並みが醸し出す雰囲気に浸るのは巡礼中の楽しみのひとつです。また麦畑の緑、黄色いひまわり、赤いアマポーラや紫色のラベンダーの花の群生地の美しさは今も思い出されます。そしてひと月歩いた後、初めて聖地サンティアゴに到着したときの感動は今も忘れられません。
巡礼路では最初はやはり筋肉とかマメの「痛み」しかありません。しかし続けていると、喜びに変わっていくことを実感できます。
歩き終わった後には、毎年、巡礼宿で2か月間、ボランティアをしています。巡礼路を歩くのもよい経験ですが、、土地の人たちと一緒になって巡礼者を受け入れてお世話をすることは、それ以上に良い経験です。巡礼宿の仕事は、部屋やトイレの掃除、食事の準備や後片付け、宿泊する人のマメの手入れや健康管理の手伝い、巡礼路の案内、宿帳と宿泊料の管理などいろいろですが、巡礼宿のトイレの掃除は特別な体験で、人生観がかわった感じがします。
滞在中にこれまで10回くらい医療通訳をしました。巡礼中に体調を壊し、巡礼宿数日間寝込む人のお世話をしたこともあります。異国に来て言葉がわからない状態で不安でどうしようもない、そんな時、「いかがですか?」と声をかけてあげるだけで、翌日「ご親切は一生忘れません」と丁重なお礼を言われたこともありました。
巡礼路上にある人口 400人のモリナセカ村は、私が毎年ボランティアをしている巡礼宿がある村です。偶然のきっかけから、私がコーディネーターとなって四国お遍路の町がモリナセカ村と交流を始めました。2010年にはモリナセカ村の村長一行が四国を訪問し、各地で大歓迎を受けました。
スペインの巡礼路を歩くと決めて10年の歳月が過ぎました。これが10年前に望んでいたことなのか、これからどこへ行こうとしているのか、自問自答は続くと思います。
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110年に渉る記録写真に刻まれた学舎と人。
この写真集「学校The Story of Our School」 は第四尋常中学ー茨木中学-三島野高校-茨木高校の110年に渉る歴史を校舎、生徒、教師を撮影した記録写真で構成しています。1995年平成7年に久敬会より発行した記念誌「天つ空見よ」を母体に、さらに、紹介されていない写真、また、新たに撮影した現在の新校舎の姿を加えてご覧いただく事ができる様に編集しました。100周年記念誌「天つ空見よ」の記事と合わせてご覧いただければ、より詳しくその時々の姿を確認していただけると思います。
開校以来現在に至るまでの校舎(木造校舎、旧校舎、現校舎)の変遷に合わせて構成した懐かしさを感じられる写真集です。