◆第14回昭和30年三島野(茨木)高校卒業7期生会◆
令和6年、11月9日(土)表記同期生会を茨木市元町の割烹「片桐」(阪急通り商店街・茨木神社手前)において開催しました。昨年は世界を震撼させた新型コロナ禍のため4年ぶりに同期生会を再開させたばかりでしたのに、今年度中に全員88歳の米寿を迎えることもあり、同期生会の開催が危ぶまれました。有難いことに20名の参加申し込みがあり安堵しましたが、直前に体調不良と緊急入院で18名となりました。コロナ前の参加 40名から昨年は25名でした。光陰矢の如しと申しますが八十歳台で一層速くなったようです。世の無常を思い知らされた想いであります。
世話人挨拶、物故者への黙祷、増田光一氏の乾杯、歓談中の自己紹介・スピーチ、坂野道治氏恒例の伝統芸能「南京玉すだれ」荒木弘進氏の音頭で校歌斉唱、記念撮影、次期世話人荒木弘進氏の挨拶で「お開き」。再会を約束してお別れしました。
校歌斉唱の度、歌詞の高崇高さに打たれます。宇宙の真理と国運の隆盛を念ずる。
日本一の、否、世界一の校歌です。私たち同期生は昭和27年4月府立三島野高校へ入学しました。この年、日米安保条約等の発効により日本は独立を回復し、国際社会の仲間入りを果たしました。茨木高校への校名復帰運動が盛り上がっていて、在学中には実現する筈でしたが、三島野高校最後の卒業生となってしまいました。同期生会には茨木高校の名称を使っていました。数年前、同期生会の出欠返信に某氏(大手建設会社のOB)から一報があり「一度も出席しなかったが、卒業したのは三島野高校、校名は大切にされたし。」早速詫び状を出し、以後表記の通りとなりました。次に異色の同期生を紹介します。英国総領事館、府教育委員会を経て府立三国ヶ丘高校校長に着任し、30年前の100周年記念事業を担いました。私たちは栄えある母校の100周年に熱中しました。後日、府庁の久数会支部総会で来賓の先輩府議、大友康亘先生が発言されました。「三国ヶ丘・八尾・茨木の3枚、同時に誕生したが100周年事業は茨木が最高だった。」その時「いや、三国ヶ丘が最高でした。」と元同校校長の矜持を保ち発言しました。同期生の志尾吉俊君のことであります。日頃は温厚篤実そのものの彼を見直した一瞬でありました。
令和 6(2024)年は記録にも、記憶にも残る年となりました。元日に能登半島大震災等が発生しました。大谷翔平選手の米国大リーグでの未曾有の大活躍や国技大相撲では尊富士、大の里に始まり琴桜関の大関五場所での初賜杯等々。能登半島大震災の犠牲になられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。また、被災に合われた方にお見舞い申し上げ、復興の一日も早からんことをお祈り申し上げる次第であります。同期生と同期生会の存在が身に染みる(熊木利隆記)