◆久敬会ミニ講演会Ⅱのご案内◆
  • 演題:「身近な宇宙、遠い宇宙」
  • 講師:飯田浩(高30回、元NEC宇宙システム事業部)
  • 日時:2022年1月22日(土)14:00~16:00
     
東京からのリモート講演になりますが、久敬会館でのスクリーンでの受講も可能です。
申込締切:1月13日(木)
(久敬会館での受講は先着30名)
リモート受講の録音・録画はご遠慮ください。

講演趣旨

 宇宙開発は、遠い世界・夢の世界に受け止められることが多いのですが、実は身近で現実的なものでもあります。身近な例を交えながら、なぜ宇宙開発が必要なのか、その分野にどのようなものがあるのか、それらの過去や現状はどうなのか、などを中心に紹介した上で、今後の展望を考え、宇宙開発による効果を身近なものとして捉えていただける様にしたく思います。
 

申込方法

下記フォームよりお申込みください。
https://forms.gle/EgxWizW63NDL3rzw9
もしくは、事務局までメール(kyuukei@skyblue.ocn.ne.jp) 又は
FAX(072-648-7124)にて、下記内容をご連絡ください。
・卒回
・お名前
・電話番号
・参加希望
会館のスクリーンで受講を希望される場合は【会場(久敬会館)】、自宅等それ以外の場所で受講を希望される場合は【オンライン】をお選びください。
・(オンライン参加の場合)メールアドレス
◆久敬会ミニ講演会のオンライン配信申込のご案内◆
 各講演会の約2か月前にこのホームページの「久敬会行事案内」に掲載いたします。
  下表中の<詳細ご案内へ> をクリックしていただいても、案内へ移動します。
      講師 講演実施日 申込案内掲載 申込受付開始  
第1 藤井泰則氏
     (高17回)
12月18日(土)
 
10月15日(金)
 
10月18日(月)
 
 現在受付中
 詳細案内へ
第2 飯田 浩氏
     (高30回)
1月22日(土)
 
11月19日(金)
 
11月22日(月)
 
 
 
第3 高木郁二氏
     (高31回)
2月12日(土)
 
12月10日(金)
 
12月13日(月)
 
 
 
◆久敬会ミニ講演会Ⅰのご案内◆
  • 演題:「日本近代水泳発祥之地」の記念碑がどうして茨高にあるのか?」
  • 講師:藤井泰則(高17回、久敬会事務局長)
  • 日程:2021年12月18日(土)  申込締切:12月9日(木)
  • 場所:久敬会館(会場での受講は先着30名)/オンライン
  • 時間:久敬会館 14:00~16:00(プール現地見学込)/オンライン 14:00~15:30頃
会場受講者は前半の講演終了後、記念碑や室内プールを見学していただきます。オンライン受講者は、記念碑や室内プールを始めとする校内点描のスライド説明を10分程度ご覧いただくことができます。

申込方法

下記フォームよりお申込みください。
https://forms.gle/pa8hSv6K3pUKNxAM9
もしくは、事務局までメール(kyuukei@skyblue.ocn.ne.jp)又はFAX(072-648-7124)にて、下記内容をご連絡ください。
卒回
お名前
電話番号
参加希望 【会場(久敬会館)参加】もしくは【オンライン参加】のどちらかをお選びください
(オンライン参加の場合)メールアドレス

講演趣旨

 近代水泳とは競泳ではクロール、そして飛び込み、水球を指します。このすべてが茨高の前身である茨中から生まれました。指導したのは自身も茨中出身の杉本傳先生です。彼は水泳監督として三大会連続でオリンピックに行かれました。育てた選手は銅メダリストの高石勝男、銀メダリストの入江稔夫など五名がオリンピックに参加しています。こんな水泳王国になったのも、初めは全校生徒が泳げるようにとの目的で、生徒達の土方作業でプールを作ったからです。そこには川端康成や大宅壮一もいました。そんな先人達の苦労や栄光を偲んだ後、今の府下唯一の温水室内プールを見学しましょう。
川端康成が大宅壮一の葬儀で読んだ直筆の弔辞原稿の発見
 
東京新聞に掲載された記事の紹介です。東京久敬会の方から知らせてただきました。 

1)「川端康成が直筆の弔辞見つかる」

2021年5月16日の東京新聞に掲載された記事です。
 川端康成(中18回)が1971年1月に、大宅壮一(中21回)の葬儀で読んだ直筆の弔辞の原本が「大宅壮一文庫」で見つかったという記事です。
 この記事には、大宅壮一と川端康成を描いた小説「マガジン青春譜」の著者である猪瀬直樹さんの談話もあります。
  ◎画像をクリックしてご覧下さい。



2)「大宅壮一没後50年 大宅壮一文庫開館50周年 文化のとりで 雑誌の宝庫」

 2020年11月19日の東京新聞に掲載された記事です。
  ◎画像をクリックしてご覧下さい。



3)ところで、猪瀬直樹さんは1999(平成11)年11月13日に、茨木高校で川端康成生誕百年を記念しで公演されています。久敬会報53号に掲載された案内記事です。
  ◎画像をクリックすると拡大します。






 
久敬会報75号p9「思い出の校舎」の訂正と補足

 高46回の方から「1993年から体育祭は万博公園で実施した」と連絡をいただきました。ご指摘ありがとうございます。写真を説明している文章の最後の文を「グラウンドが無いため1993年から1997年の体育祭は万博公園で実施されました」に訂正をお願いします。
 久敬会報の編集委員に当時を知る者がいないので、新校舎竣工の記載がある『創立110年記念誌』の年表を調べたのですが、調査が不十分でした。『茨木高校百年史』の年表の1993年に、1/18グラウンドの文化財本調査開始、9/7雨天のため体育祭中止、9/10体育祭(於万博グラウンドにて マスコットは二体のみで代わりに応団幕ができる)と記載がありました。関係の皆様には深くお詫び申し上げます。
  • 以下に今回の写真に関連する校舎変遷の簡易年表を作成しました。
    写真には建物の呼び名(A館~E館)等を記載しました。

    画像をクリックすると大きくなります。
    1933(昭和8)年   旧B館(南館、講堂ほか)竣工
    1935(昭和10)年 旧A館(北館)と正門竣工
    1966(昭和41)年 久敬会館完成
    1969(昭和44)年 第2代プール竣工
    1972(昭和47)年 旧C館1期工事完了、
    旧本館撤去
    1975(昭和50)年 旧C館4期工事完了
    1982(昭和57)年 旧D館(現E館)竣工
    1993(平成5)年 埋蔵文化財調査開始
    1997(平成9)年 4月 新校舎に移転
    8月 旧A~旧C館撤去
    10月 旧体育館・柔剣道場撤去
  
久敬会報75号p26の訂正とお詫び

久敬会報第75号26ページの『2020年度有志寄付』について記載ミスがありました。
26,000円のご寄付をいただいたのは、高25回3年2組有志の皆様でした。お手元の会報当該欄の高23回を高25回にご訂正くださいますようお願いいたします。
尚、せっかくご寄付くださった高25回3年2組の皆様には、残念な思いをさせましたこと、深くお詫び申し上げます。
加藤逢吉(本校初代校長)と正岡子規との一夜の出会い  

 久敬会広報委員長の岩井英雅さん(高20回)が正岡子規の随筆『筆まか勢 第一編』から見つけられた記事と初代校長加藤逢吉の紹介です。
 岩井さんは、茨木高校在職中は母校の百年の史料整理や『茨木高校百年史』編纂に尽力され、近年は「久敬会報」発行の中心になっておられます。
 
 明治22年(1889)24日、一高生だった正岡子規は郷里の松山へ帰省するために、従弟の藤野古白と新橋停車場を出発した。京都で三十三間堂を見学した後、汽車で神戸まで行き、八幡丸に乗船したのは27日。
 その上等室にたまたま乗り合わせたのが、当時、滋賀の師範学校に勤めていた加藤逢吉(本校初代校長)だった。
 
 子規の日記風の随筆「筆まか勢 第一編」には、同室の教師について、次のように記されている。

 《二人は年も若く一人ハ慶應義塾の教師、他ハ三重の師範学校の教師也 (中略)後には加藤逢吉といふ人も来りぬ、此人は滋賀の師範学校の教師にて 三重の教師石井某とは同窓の旧友なりしかば 書生間の出来事を物語られたり 二人とも もと東京大学に居りし人故 其話は多少余と関係もあり 殊に其時分のしくじり話しや朋友の評判などは 今日は皆堂々たる学士諸子の履歴に関する故
 覚えず笑壺に入りたり、斯くて三十時間許りの航海も長きとも知らで三津港に着けり 帰郷後ハ時候の温暖(東京に比して)なるが為に再生の心地し 七年ぶりに故郷の雑煮を味へり》
 加藤逢吉だけがフルネームではっきりと書かれているのが大変興味深い。よほど印象深かったのだろうか。加藤逢吉は安政4年(1857)生まれだから、この時32歳。子規はまだ22歳という若さだった。
 
 それから2年後に加藤逢吉は歴史的な事件に遭遇することになる。日本を親善訪問中のロシアの皇太子ニコライが、琵琶湖遊覧の帰途、巡査津田三蔵にサーベルで斬りつけられて傷を負うという、日本中を震撼させ大津事件である。事件は明治24年(1981)5月11日のことだった。幸いにもニコライ皇太子は軽傷で、襲われた場所を記念のために写真撮影させたい、という意向があり、15日にロシアの海軍士官らが赴くことになった。その電報を受けた滋賀県知事が英語の通訳兼案内人として依頼したのが、滋賀の師範学校の教師をしていた加藤逢吉ともう一人の教師だった。加藤逢吉は物理の教師だったが、英語も堪能だったのだろう。
 
 加藤逢吉が本校初代校長となるのは、それから数年後の明治28年(1895)のことである。ちなみにこの年、夏目漱石は子規の母校である松山中学に赴任し、そこでの経験が後に小説『坊つちやん』に結実する。また、〈柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺〉という有名な句を子規が詠んだのが、この明治28年秋のことだった。
 ご遺族から寄贈を受けた、明治31年(1898)から昭和14年(1939)までの加藤逢吉の日記を久敬会館に保管してある。子規が亡くなるのは明治35年(1902)9月18日。日記に何か書かれているかもしれない、と思って確かめたが、特に記述はなかった。
◆個人情報保護のお願い◆
 
先日、東京都内の方から都議選に関して卒業生と名乗る人物から電話や訪問を受けて迷惑したとの連絡が事務局宛てにありました。
久敬会では既に個人情報保護の観点から名簿の発行は停止していますので、以前の名簿を利用しての行為と思われますが、このような選挙目的での利用は厳に慎んで頂きますようお願いいたします。
又、廃棄される場合も名簿は言わば個人情報の集合体ですので、充分にご注意下さいますようお願い申し上げます。
【新内浄瑠璃が出逢う松下眞一の世界】のご案内
新内の楽しみ 特別編 新内浄瑠璃が出逢う松下眞一の世界
2021年3月14日 (日) 15:00開演
茨木市市民総合センター(クリエイトセンター)センターホール。全席指定。
一般2,500円/65歳以上、障害者及びその介助者2,000円/24歳以下1,000円
 
イベントの詳細はHP https://www.ibabun.jp/event/261/ をご覧ください。動画あり。
松下眞一さんの業績については、https://ja.wikipedia.org/wiki/松下眞一 などを参照してください。
以下は茨木市文化振興財団の安藝しのぶさんからの案内メッセージです。
 ----------------------------
 現代音楽の作曲家・松下眞一さん(中41回)の楽曲を取り上げた公演を開催いたします。
松下眞一さんがご逝去され既に30年ほどたち、市民の中にもだんだんと知る人が少なくなってきている悲しい事実がございます。
理学博士、数学者であり、作曲家であった松下さんは、大阪市立大学やハンブルク大学で教鞭をとられ、位相解析学、ポテンシャル論の権威として業績を残されました。
また日本万国博覧会に委員として参画。
また作曲家としてはウィーン世界音楽祭をはじめとした国際的な芸術祭にも数多く招聘され、世界的に活躍されました。
そんな松下眞一さんの生きてこられた時代背景などを浄瑠璃で描きながら、楽曲を演奏する公演になります。
 
 同じく茨木高校ご出身の大野裕之さん(高45回)にもご登壇いただき、この公演全体の水先案内人のような役割で話を進めていただく予定にしております。
豊かな人材を輩出している貴校ご出身の方を皆様にご紹介いたしたく、また、たくさんの方に見ていただきたいと思っております。このコロナ禍ではありますが、感染症対策をしながら開催いたします。
◆就活相談会準備会開催日程変更について◆
 
 先般発送しました今年度の久敬会報(第74号)の5ページに掲載しております「就活相談会準備会」(=相談員の方との事前打ち合わせ)の開催日程を下記の通り変更します。
  • 変更前:9月12日(土)
  • 変更後:9月26日(土)
開始時刻は14:30で変更ありません。
急な変更にて申し訳ありませんがよろしくお願いいたします。
なお、相談員希望の方で準備会に参加される方は事前に事務局までメールまたはFAXにてご連絡をお願いいたします。
◆川端康成と岸惠子◆
 女優の岸惠子さんが日本経済新聞の「私の履歴」を5月1日から31日まで30回に渡って連載執筆されています。
 岸惠子は女優にデビューした高校3時、短編小説書いており、川端康成と面会していて、フランスでの結婚式では偶然出会った川端に仲人をしてもらっています。
 そのエピソードは「私の履歴書」の⑧⑯⑰に記載されています。

 
 記事の抜粋を以下に紹介します。
 
 岸恵子という日本を代表する映画女優を今の若い人たちはどの程度ご存じだろうか? 1932年生まれなので現在88歳。写真の通り驚くほど若々しい。
 彼女が21歳の時に佐田啓二と主演した「君の名は」三部作が大ヒット。
映画会社の松竹はこのおかげで本社ビルを建てることが出来た位であった。
岸恵子が演じた氏家真知子のスカーフの巻き方は「真知子巻き」と呼ばれ日本中の女性が真似たと言われる。
一躍、大スターとなった彼女の回りには人が群がり波ができ、ロケは度々中断しないと前に進めないようになった。
 
 その岸恵子が実は川端康成の小説を耽読していて、しかも彼女が高校三年生の時に川端康成と面会していたのだ。
岸恵子の従姉妹の夫に若槻繁という人がいた。この人は川端康成の愛弟子で雑誌「ひまわり」の編集局長をしていた。若槻は岸が書いた短編小説を読んで「恵子ちゃんは女優になるより作家になった方がいい」と言い出し、川端康成の定宿である東京・四谷の料亭旅館「福田屋」に連れて行った。
 
 その時の印象を岸恵子は次のように述べている。
「私は身分違いの雰囲気におののき、湖のように深い大作家の目に見つめられて手から桜茶を落とした。畳にこぼれた桜茶をワンピースで拭きながら、自分のつたない小説を座布団の下に滑り込ませて恥じ入っていた。そんな私を大作家はじっと見ていらした。(物書きはああいう目をしていなければダメなんだ)
料亭を出て歩く私の脚に桜茶でびしょびしょにぬれたスカートがまとわりついた。」
 
 当時の娯楽の王様だった映画は制作し封切ると、すべてが観客動員できた。
岸恵子は同時に二本も三本も撮影する日々が続いていた。
 その中で特筆すべきは1956年に制作された日本とフランスの合作映画「忘れえぬ慕情」である。
これを機会に監督のイヴ・シァンピと岸恵子が結婚することになったのだから。
 イヴ・シァンピは若い軍医でもあったが、第二次世界大戦当時、ヒトラー邸炎上からナチス占領下にあったシャンゼリゼ大通りをド・ゴール将軍が凱旋するまでを16ミリカメラで撮影し、そのドキュメンタリーが世界的ヒットとなっていた。
 ある撮影休みの日、イヴ・シャンピは長崎の高級料亭に岸恵子を誘った。
その席でのイヴ・シャンピのプロポーズの言葉がしゃれている。
「あなたには好奇心がある。日本も素晴らしいけど、地球上には色々な国があり、生き方がある。僕が招待するからヨーロッパやアフリカを一緒に見てみませんか」
複雑な顔の岸恵子にシャンピは笑って言った。
「卵を割らなければオムレツは作れない、という諺がある。色々な国を見て、それでもやっぱり日本がいいと思ったら帰ってくればいい」
「そんなことしていいの」と問う岸に、「あなたは自由なんだ。阻むものがいるとしたら、それはあなた自身だけだ」と答えるシャンピ。
そして岸恵子は恋に落ちた。
 
 川端康成原作の「雪国」が岸恵子の「それまでの私」への決別の映画と決めていた。女優としての私、祖国、両親、愛してきたすべてのものへの決別。
「雪国」出演が決まった時、イヴ・シャンピに電報を打った。
「1957年5月1日にパリのあなたの元に行きます」
 
 パリに到着した3日後に迫った結婚式には日本と同じように仲人が必要だった。文化大使として評判の高かった某氏に依頼したが「あなたは君の名はとやらでスターになったと聞きましたが、私にも立場がある。仲人はできません」と断られてしまう。
 傷心のままで面談室を出ると、なんと川端康成が目の前のソファーに座っているではないか。川端はそのままシャンピ家まで来てくれ「仲人?私がやりますよ」と快諾してくれた。
 川端康成はパリで開かれた国際ペンクラブ世界大会に出席するため、日本会長として公式訪問していたのだ。
 シャンピ家で昼食となった。
給仕長が銀皿から白アスパラガスを優雅に配る。岸恵子はナイフを使ってはいけないものが3つあると聞いていた。サラダ菜、スパゲッティ、アスパラガス。
それじゃどうやって食べるのと内心思っていると、川端康成は細い指で白アスパラガスをヒョイとつまみ、ベシャメルソースに浸してパクリと食べた。
素敵だと思っていると「今、アスパラが旬ですね。とても美味しい。」と言いながら、岸の目をじっと見る。
「四谷の宿で座布団に隠した小説を見せてください。」
「あれは・・・・捨てました」
「嘘でしょう」
嘘だった。小説の題名は「梯子段」。今も手元にある。
  (日本経済新聞「私の履歴書―岸恵子―」より抜粋)
幹事の皆様へ                  2020年 7月6日

幹事会は書面で開催することになりました。
「幹事会資料」および「回答書」を閲覧していただけます。
幹事会資料(PDF形式)→クリック
回答書(word形式)→クリック
  • 閲覧には郵送した書類に記載したパスワードが必要です。
  • 「幹事会資料」および「回答書」は郵送でお送りした内容と同じです。
    ただし、各委員の方には郵送に替えてメールでお送りしています。
  • なお、茨木高校は6月15日から通常授業が再開されています。

新着情報

久敬会事務局 TEL:072-624-1545
FAX:072-648-7124
E-mail:
住所変更等は、コチラ
開館時間:9時30分~16時(12時~12時30分を除く)
(土・日曜日及び祝日は原則休み、又、お盆休暇、年末年始休暇、それに高校入試日の3月中旬の1週間程度)
このページのトップへ