平尾隆弘
氏の講演
(書き起こし:安田行事副委員長、監修:平尾隆弘)
茨木高校創立120周年 記念講演 2015.11.1
皆さん、こんにちは。お忙しい中、お運びいただきありがとうございます。本日の会の準備を整えてくださった方々にも、厚く御礼申し上げます。
今年は創立120周年ですが、50年前、創立70周年には川端康成さんと大宅壮一さんが記念の講演をされました。
私が文藝春秋に入社したのは1970年です。入社試験の役員面接、つまり最終面接で、「君の高校は昔の茨木中学だろう。大宅さんと川端さんが卒業生じゃないか」と訊かれました。「はい、そうです。創立70周年ではお二人が講演に来られました」「ほお」「川端さんが壇上の水をコップで飲んで《故郷の水はうまいですな》と言われました」と答えたんです。役員たちがみんな笑ったので雰囲気がよくなりました。入社できたのはお二人のおかげかもしれないです。
ですから今日は、川端さんと大宅さんの話から始めます。年齢は川端さんが大宅さんの一歳上、学年は三つ違いです。大宅さんが茨木中学一年のとき、川端さんは四年生でした。このとき、皆さんご存知のように、全国に先駆けてプールが造られたわけです。我々が泳いでいたのは50メートルプールでしたが、最初は長さ40メートル強、幅30メートル弱という形だったようです。予算がないから生徒が体操の時間に作業に駆り出されで、役割分担する。スコップ組は土を掘り返す。その土を穴から外へ出すのは籠組、掘り出した土を大八車で運ぶ車組、掘った穴に溜まる水をかい出す水車組と、四つに分かれていました。大宅さんは水車組、川端さんは車組です。
川端さんはいくつもの名作を残しておられますが、もうひとつ、隠れた功績があります。中川李枝子さんと山脇百合子さんという姉妹の絵本作家を世に送り出したことです。1962年、二人の最初の童話が出版された時、第一回野間児童文芸賞の候補になりました。川端さんは選考委員として、「この作品に賞を与えなかったら、自分は委員をやめる」と反対を押し切ったそうです。中川さんと山脇さんはその後『ぐりとぐら』という絵本を発表されました。ご存知の方も多いと思いますが、『ぐりとぐら』は大傑作。日本で一番読まれている絵本になったのです。
優れた絵本には一生に三回親しむ機会があると言います。最初は子供の時、次は親として、三度目は孫を持つ年齢です。ぐりとぐらは双子の野ネズミの兄弟で、そのままそっくり、幼い子供たちの世界と重なります。子供が最初に友だちになるのは、自分と似ている子供。自分にないものを持っている人と友達になったり、性格が違う相手と恋人になったりするの、は思春期以降の現象なんですね。最初は一人遊びして、自分の分身を作って遊び、次は自分と一番似ている相手を探す。『ぐりとぐら』はその世界にぴったりくる素晴らしい絵本です。というわけで、川端康成さんは、小説のみならず児童文学や絵本の世界にも大変な貢献をされています。
大宅さんは私が入社した1970年に亡くなられました。ちょうどその年、大宅壮一ノンフィクション賞が創設され、大宅さんは第一回目の授賞式だけ出席されたのではないかと思います。大宅さんのお姿は遠くからお見かけしましたが、残念ながらお話はできませんでした。大宅さんの奥さまとは、その後大宅賞の会場でご挨拶して茨木高校の話もしました。「私、先生の後輩なんです」「あらそう。大宅はね、あんまり茨木中学にいい思い出はないみたいよ」と言われて、その話題は入り口で終わりましたが……。奥さまは『大きな駄々っ子』という本を書かれて、そのなかの大宅さんはとても魅力的です。
大宅さんは半世紀前に出た、『日本のいちばん長い日』という本の監修者になっておられます。今年の夏、映画が公開されたのでご覧になった方もいらっしゃると思いますが、この本は、昭和20年8月14日の正午から、8月15日の正午、昭和天皇の玉音放送がラジオで流れるまで、24時間を1時間刻みで追いかけたドキュメントです。本を書いたのは、実は私の大先輩、当時35歳の社員だった半藤一利さんでした。社業の合間に時間を見つけて取材し、一冊の分量になったので上司に、「こんなものを書きました」と言うと、「うん、なかなか面白い。お前の名前は誰も知らないから、大宅さんの名前を借りて出版しよう」ということになった。50年前、本が出たときもすぐ映画化されたりしてずいぶん売れたんですが、印税は一銭も入らなかったようです。少しくらい貰えないんですかと上司に訊いたら、「お前、取材の電話は会社の電話だろ」「はい」「取材申し込みは会社の名刺だろ」「はい」「じゃぁ仕事じゃないか。給料のうちだと考えろ」と言われたそうです。いまや半藤さんは昭和史の大家になり85歳でご健在、文庫本もご本人の名前で刊行されています。先日お会いした折、「原作者として映画の感想はいかがですか」と伺ったら、ひとつだけ「映画の中で、皆ニッポンと言ってる。鈴木貫太郎までがニッポンと言っているのはちょっとなぁ」と仰っていました。
『日本書記』の呼び名で分かるように、古代は「二ホン」です。「ニッポン」は対外関係が活発になった室町時代あたりから使われました。お札は全部「NIPPON GINKO」と印刷してあるし、切手にも葉書にも「NIPPON」と刷ってあります。でも『日本のいちばん長い日』の時点では、昭和天皇も首相も大臣も軍隊も、映画と違って、自国のことを「ニッポン」とは言っていないのは確かなようです。
今日の演題は「出会いの時間」ですが、私はもともと本や雑誌が好きで、高校時代には小説家になりたいなどと言っていました。実は、勉強しない、勉強ができない言い訳みたいなところがあった気もします。まあ、小学校でガリ版を自分で切って新聞を発行したり、中学・高校では濱くんや高橋くんを巻き込んで「新しい声」という、やはりガリ版刷りの雑誌の発行人をやっていましたから、好きなことは好きだったんです。去年かな、阪大に行った同窓の生島博くんと電話で話す機会があって、「俺、茨高のとき平尾がやってた雑誌に投稿した。そしたらボツにされた。何でや? って聞いたら、オモロナイから、って言われてショックやった」と言われました。覚えてないけど、そのときからもう編集者やってたんだと思いました。
で、文藝春秋に入社し、編集者としていろんな筆者の先生方を担当しました。スタートは「週刊文春」で赤塚不二夫さんの連載漫画の担当です。赤塚さんは編集者と一緒に漫画のアイディアを考えるので、その天才ぶりに間近で接することができました。ある日、みんなで飲みに行ってわいわい騒いでいた時、当時一番若かった私を、他社の編集者がからかったんです。そうしたら赤塚先生がいきなり「みんな、平尾さんをいじめたら承知しないぞ!」と叫びました。それまでそんなこと一切なかったので、私も皆もビックリですよ。あとでマネージャーの人に「いったいどうしたんですか?」って聞いたら、「先生はね、文春の原稿料をさっき初めて知ったんだ」と言われました。私も知らなかったんですが、少年漫画は1頁8千円なのに、週刊文春は1頁2万円払っていたそうです。会社のおかげで、私も可愛がっていただいたわけです。
赤塚さんの担当の後、芥川・直木賞や大宅賞の事務方をする部署に移りました。先日、太宰治が芥川賞を欲しくて、佐藤春夫に出した書簡が発見されたり、お笑いの又吉直樹さんが「火花」で受賞したり、芥川賞と直木賞は相変わらず話題になっていますね。
最初に芥川賞がニュースになったのは、石原慎太郎さんが「太陽の季節」で受賞された昭和30年です。当時、石原さんは23歳。一橋大学の学生でした。この年、国民総生産はやっと戦前の水準に達しています。戦後豊かになったと言われていますが、昭和20年代はまだまだ貧乏だった。「太陽の季節」は完璧にブルジョア青年(アプレゲール)の世界だから、皆驚いたんですね。私がそれを実感したのは、月刊「文藝春秋」で、石原さんと五木寛之さんに対談していただいたときです。お二人は昭和7年9月30日、同年同月同日生まれなんです。お互いすれ違いで、初めての対談。顔を合わせた途端、開口一番、五木さんが、「石原さん、貴方が『太陽の季節』でヨットに乗っていた時、私は貧乏学生だったんだ。学費が払えなくって血を売ってたんですよ」と言われたんです。ドキッとしました。五木さんは、俺は金が無くて大学は中退、血を売るアルバイトもした、あなたはヨットに乗っていい気分で遊んでたと、まあ挨拶代わりにガツンとかましたわけですね。石原さんはどうされたと思われますか。皆さん、「何だって? それがどうしたんだ」と言うと思うでしょう? ところが、心底感心した表情で「えーっ、そうなんだ、それは大変だったんだなぁ」と素直に応えられたんです。石原さんは世間では傲慢な人のように思われていますが、実物はとてもシャイで素直というかナイーブなところがあって、このときもそんな反応でした。五木さんも拍子抜け。石原さんにとても好感を持たれて、対談はとてもいい雰囲気で進みました。
芥川・直木賞の係になったとき、上司に「賞は『くれてやるんじゃない。差し上げるもの、貰っていただくものなんだよ。受賞者に第一報を入れるのは君なんだから、くれぐれもエラそうにしちゃいけません」と言われました。受賞のお知らせと同時に「お受けいただきますか」と訊きなさいとも言われたんです。ナルホドと思って、いよいよ選考委員会に臨み、まず直木賞に藤本義一さんの「鬼の詩」という作品が決まりました。で、大阪の藤本さんに電話して、「日本文学振興会の平尾と申します」と名乗りました。実はこれだけで、候補になった人は自分が受賞したと分かるんです。日本文学振興会は受賞者にだけ連絡する、受賞できなかった候補者にはそれぞれの担当者が電話します。だから午後5時から選考会が始まって、7時か7時半頃に電話がかかってきて、「オール讀物の誰々です」とか「文學界の何々です」と担当者が名乗れば、「ああ、今回は駄目だったか」となる。私が「ただいま第71回直木賞選考委員会が終わり、藤本義一さんの受賞が決定いたしました」と言ったら「ありがとうございます」と答えられました。そこまではいいんですが、何分初めてで「お受けいただきますか」と訊くのを忘れっちゃった。「明日上京して文春に伺います」とか藤本さんが言ってる話をさえぎって、「あのーですね、お受けいただきますか」とおっきな声を出して聞いてしまいました。
翌日、来社された藤本さんに「あんた、受賞式の話してる最中、『お受けいただきますか』はないやろ。ビックリしたで。『いや、要りません』って言いたくなったわ」と言われました。それ以来、控えめにさりげなく「お受けいただきますか」と伺うようになりました。
偉いと思ったのは司馬遼太郎さんです。選考が終わった後、毎回記者発表があります。選考委員を代表して、お一人が選考経過を説明されるのですが、あるとき司馬さんが席につかれました。選考の概要を話されると、記者が「下馬評では有力だった〇○は、なぜ受賞しなかったのですか」と聞きました。よくある質問で、たいていは「うん、こういう意見があって、惜しかったけど今回は受賞にいたらなかったんだ」と答えられます。司馬さんは違いました。ちょっと困った表情をされて、「あのなぁ、本人がどうしても候補にしてくれ言うたわけやないやろ。勝手にこっちが候補になってもらって、それでどこがアカン、どこが足りんと言うのは失礼やろ、そやから勘弁してな」と答えられたんです。そんな答え方をされた先生はいなかったので、強く心に残りました。後年、司馬先生にお会いした時、「私はあの直木賞の記者会見におりまして、先生のお答えに感動しました」と言ったら、「ああ、あの会場にいてたの、そうかいな」みたいな感じでね、司馬さんにとってはどうという事はない、当たり前のことだったんだと思います。
芥川賞も直木賞も文藝春秋が主催しているから、選考には文春の意向が介在するといったことをよく言われます。しかし、それはまったくありません。もう時効だと思ってパーティで話したことがありますが、あるとき芥川賞の選考で、二作受賞か受賞作なしかで議論が分かれたことがありました。私は隅っこの方に坐って聞いていましたが、そのとき当時の社長が、恐る恐る「いかがでしょうか、二作受賞というわけにはいかないでしょうか」と発言しました。すると、選考委員の永井龍男先生が大声で、「君は黙ってろ!」とお怒りになったんです。
「私たちは文藝春秋のために選考しているんじゃありません。日本文学のためにやっているんです」と言われて、そのあとがもっと怖かった。「君がそういう余計な事を言うなら。今回の受賞作はなしにします」ということになりました。社長は米つきバッタのように「申し訳ございません」と謝っていましたが、結局受賞作なしで終わりました。あとで聞いたら。永井先生は戦前「オール讀物」編集長で、社長は入社したばかりの平社員だったそうです。そんなことがありますから、文藝春秋としてはひたすら恭順の意を呈して選考経過に口出しすることはありません。
編集者として、とりわけ印象深いのは山崎豊子先生です。私は戦争孤児と日中合弁の製鉄事業をテーマにした『大地の子』と、沖縄返還にからむ外務省機密漏えい事件を扱った『運命の人』という小説に関わっています。
1987年4月。月刊「文藝春秋」の編集部で連載される「大地の子」担当のご挨拶で、編集長と社長と一緒に大阪府堺市の浜寺のご自宅に伺いました。初対面のことはよく覚えています。先生は「私、一作に5年も6年もかけてるの。この小説が上手く行かんかったら5年6年がパーになってしまう。よろしゅう頼んますわ」と、手を開いて「パー」の仕草をなさいました。
山崎先生は日本に珍しい、というか一人しかいない長篇小説作家です。あ、ついでに言うと、先生の名前は「やまざきとよこ」じゃなくて「やまさきとよこ」で濁らないんです。「小説では、悪役に濁点つけてるの。やまざきやと悪役になってしまうがな」と仰っていました。「やまざき」だと作者も悪役になってしまう。確かに、『白い巨塔』のダーティ・ヒーロー「財前五郎」には三つも濁点があるし、誠実な医師は里見は名前が澄んでいる。私の名前は「ひらおたかひろ」で、「平尾さんは濁点があらへんな。悪玉と違うな」と言われて「ありがとうございます。でも先生、ぶんげいしゅんじゅうには三つも濁点がありますね」と笑ったことがあります。
長篇小説の話に戻りますが、山崎先生の執筆年数56年間で、作品の点数はわずか17点、驚くほど少ないんです。司馬さんや清張さんは、長篇小説の数がもっと多いし、短編小説もありエッセイや紀行文もあります。山崎先生は長編小説一本にかかりきりで、『大地の子』は取材に3年、執筆に4年かけられました。その間、短編小説もエッセイも書かない。講演も対談もやらない。文壇づきあいもないし、出版社のパーティなど出たことがないといった徹底ぶりです。テレビにも出ないから、作家の名前よりも、『白い巨塔』『華麗なる一族』『不毛地帯』『二つの祖国』『大地の子』『沈まぬ太陽』といった小説のタイトルのほうが有名でしょう。先生はしょっちゅう「私は作家馬鹿やから」と言っておられました。ご主人がいるのに炊事洗濯掃除など、家事はいっさいしない。小説を書くしか能がないということで一見謙虚ですが、実は全身全霊を込めて小説を書いているという自負があったと思います。
それだけに小説には全力投球。担当になったとたん毎日のように連絡が来ます。「意見なき者は去れ」が口癖で、ほめても駄目なんです。「べんちゃらはいらん、アカンのはどこや?」。注文をつければ「さすがは平尾さん。あんたみたいな人を待っとったんや」とべんちゃらも仰います。「主人公の陸一心がピンチになった。さぁどうする?」みたいな質問も突然来ます。1回1時間として、毎日に近く電話があると、他の仕事も抱えていますから、ちょっと閉口するときもありました。しかし振り返ってみると、編集者として滅多にない経験で、ものすごく勉強させてもらったと感謝しています。
『大地の子』は、中国側の取材協力があって初めて可能になりました。当時、開放路線を敷いた胡耀邦総書記との出会いが大きな後押しになっています。改革派の胡耀邦が総書記でなかったら、辺境にある労働改造所や政治の中枢である中南海を取材することなどできなかった。先生は胡耀邦さんへの恩義を強く感じておられ、彼が失脚し、1989年4月15日に亡くなった時は、「何があってもお弔いに行く」と言われました。
私は校了日が近いし他の仕事もあるので、「先生、ご一緒できませんが」と申しましたら、「私ひとりで行く」と断固たる決意でした。 そのときの先生の迫力は凄かったです。
先生が北京に行かれたのは89年の4月下旬で、6月4日の天安門事件の直前です。天安門事件は胡耀邦の死去がきっかけで、4月に下旬にはデモ隊が連日天安門広場に集結し、自由化を要求していました。北京空港に降り立った時の先生の写真を見ると、胸を張って踏ん張って立って、背中には桃太郎みたいなノボリの旗が立っています。ノボリには「追悼 胡耀邦先生 / 日本国作家 山崎豊子」の二行が墨痕鮮やかに書いてある。以下は帰国後に伺った話です。官憲の監視のなかで、胡耀邦さんの自宅付近に到着すると、周りにはずらりと警備員が並んで、その外側にまた群衆が押しかけている。先生がノボリを背に近寄ると、官憲側は「立ち入り禁止」にして入れてくれない。しかし周りの群集は「入れてやれ、入れてやれ」との大合唱。先生は中国では有名人なんです。小説の海賊版が出まわっていて、特に銀行を描いた『華麗なる一族』は、資本主義の悪を描いた名作として高く評価されている。それで群衆は応援してるわけです。大方の警備員は「まぁいいか」みたいになったんだけど、1人だけ、先生は「金バッジ」と言っていましたが、胸に金の徽章を付けた男が頑張っている。金バッジは、どうやらその場の最高責任者みたいなんです。先生はとうとう堪忍袋の緒が切れて、持っていたカルティエのショルダーバッグで、その金バッジを思い切り殴りつけたそうです。バッチンバッチン殴っているとさすがに金バッジも迷惑そうに後ずさりしたので、その隙にさっと家の中に入り込んだ。胡耀邦さんの奥さんは、外の様子にハラハラしていたので、先生をすぐ家に引っ張り込んで、2人抱き合って号泣しあった。その抱き合っての号泣写真は、同行したカメラマンが何枚も撮っているので、私も記念にいただきました。バッグの留め金が壊れちゃったので、帰国してから先生が高島屋に修理に出したところ、「よほど強いものをお打ちになりましたね」と言われたそうです。
そういった迫力は全作品に共通で、来年の1月、三回忌を記念して大阪と京都の高島屋で展覧会がありますから、興味あるかたは覗いてみてください。
山崎先生は一昨年亡くなられ、今年8月には阿川弘之先生がなくなられました。お別れ会はこの24日です。編集者として、敬愛していた作家の方が鬼籍に入られるのは本当に寂しいことです。私は「個人追悼」と称して、お会いした筆者の方が亡くなった日、一日でもいいから一人でその方の本を読むようにしています。藤本義一さんがなくなられた時も、「鬼の詩」を読み返しました。阿川先生の場合もそうしたいと思ったのですが、『山本五十六』『米内光政』や『暗い波濤』など長篇が多い。考えているうちに、そういえば阿川先生が『耳嚢(みみぶくろ)』って面白いんだ、と仰っていたことを思い出しました。で、岩波文庫の『耳嚢(みみぶくろ)』を取り出して読み始めたら、これが面白いんです。三巻本ですが、同僚や古老の話を集めたものなので、一つ一つは短いんです。その中に、「老人え教訓の歌のこと」がありました。
今日は久敬会の辻本さんにお願いして、ペーパーをお手元に配っていただきました。辻本さんに「今日久敬会に来られる方の年齢はいくつくらいですか」と伺ったら、「去年は60歳以上の参加者が72%でした」と丁寧なお返事をいただきました。じゃぁ話が通じるし、会場に足を運ばれるわけで皆さんお元気だから失礼じゃないだろうと思いました。
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・皺はよるほくろは出来る背はかがむ
頭は禿げる毛は白くなる
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・手は震ふ足はよろつく歯は抜ける
耳は聞こへず目はうとくなる
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・よだ(よだれですね)たらす目しるをたらす鼻たらす
とりはづしては小便ももる
(「とりはづしては」は失禁してという意味です)。
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・又しても同じ噂に孫自慢
達者じまんに若きしゃれごと
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・くどふなる気短になる愚痴になる
思ひ付(つく)こと皆古ふなる
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・身に添ふは頭巾・襟巻・杖・目鏡・
たんぽ・温石(おんじゃく)・しゅびん・孫の手
(「たんぽ」は湯たんぽ、しゅびんは尿瓶シビン)。
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・聞きたがる死にともながる(「死にたい死にたい」って言う)淋しがる
出しゃばりたがる世話やきたがる
ざっと読んでいただければ分かるように、よくまぁこれだけ網羅した。それに、江戸時代からあんまり変わってないなぁと思いますよね。続いて作者の狂歌で、その前に注釈があります。
「是をげに姿見として、己(おのれ)が老いたる程を顧みたしなみてよろし。し
からば何をか苦しからずとして、ゆるすぞといわば、」と書いて、狂歌を自分で作
ったのです。つまりどうしたらいいか、解決策を歌ったわけです。
宵寝・朝ね・昼寝・物ぐさ・物忘れ
夫(それ)こそよけれ世に立たぬ身は
要するに、他人に干渉しないでゆっくりしたらどうかということ
です。阿川先生が『耳嚢(みみぶくろ)』のこの箇所を面白いとおっしゃったかど
うかは分かりません。分かりませんが、この狂歌と先生の老後の出処進退とは相
関関係があると思っているんです。
先生は「文藝春秋」で毎号「巻頭随筆」を執筆され、私も担当させていただきましたが、九十歳を前にご自分から連載を 降りると言いだされました。毎号、文章を読む楽しみを味わわせてくれる貴重な原稿でしたから、「もっと続けてください」と皆でお願いしました。先生の答えは、「出ずるときは人に任せ、退くときは自ら決せよ」。辞める時期は自分で決めるということでした。いっそう尊敬して自分も見習いたいと思いました。
先生が80歳前後、『二十世紀 日本の戦争』という大座談会を「文藝春秋」でお願いしたことがあります。日露戦争から湾岸戦争までの五つの戦争を検討するので、お弁当を用意して7,8時間ぶっとおし。阿川先生はメンバーの最年長。それなのに、皆疲れて姿勢がだんだん崩れてくるなかで、最後まで背筋をピンと伸ばしておられました。戦後生まれの出席者の一人が、「やっぱり阿川さんは凄いなぁ。姿勢が変わらないんだもん。大岡昇平さんが、『戦争を知らない人間は、半分は子供である』と書いているけど、我々は姿勢ひとつとっても半人前だよねぇ」と語っていました。
阿川先生は、私たちには紳士、ジェントルマンそのものでとても優しかったん
ですが、お嬢さんの阿川佐和子さんに言わせると「この家に生まれたことが不幸
なんだ」とずっと思っていたくらい、家庭内では独裁者だったようです。
佐和子さんの著書『叱られる力』に、小さい頃のお誕生日の話が出てきます。お誕生日、先生が中華料理店に連れて行ってくれます。先生が車を運転して、助手席にはお母さん、後部座席に佐和子さんとお兄さんが坐るのが決まりでした。中華を食べ終わって、お店のドアを開けたら北風がびゅうっと吹いてきた。「寒い!」と思わず口にしたのが最悪の事態を招くんです。「寒い? 寒いとはなんだ、誕生日にせっかくご馳走してやったのにどういうつもりだ」と先生が癇癪玉を破裂させます。「ああ美味しかった」とか「ご馳走さまでした」がないのがまずかった。佐和子さんは叱られてワンワン泣きだし、帰りの車の中でも泣いている。先生の方は運転しながら後部座席の佐和子さんに怒鳴りまくっている。お母さんは普段は黙っているのですが、さすがに見かねて禁断の一句を言ってしまいます。「もうそんなに怒らなくてもいいじゃないですか。佐和子も分かったと思いますから」。これが癇癪玉にガソリンをふりかける効果があって、「なんだと?」となるわけです。「だいたいお前の教育がなってない。子どもを甘やかすからこうなるんだ」「でも…」「俺に文句があるのか。気に入らないなら出ていけ。いますぐクルマを降りろ!」となりまして、とうとうお母さんは途中の道端で降ろされちゃう。テレビの「私が子供だった頃」という番組に佐和子さんが出ていて、この誕生日のシーンを映像で再現していました。後部座席に腰かけている兄弟二人が、後ろ向きになって「おかあさ~ん」と泣いている。道端で放り出されたお母さんの立ち姿がだんだん小さくなっていく。運転している阿川先生役の男は、口を「へ」の字に結んでムスッとしていました。テレビの放映直後に佐和子さんにお会いしたので、「思わず笑っちゃいました」と言ったら、「笑い事じゃなかったのよ」と言っておられましたが。
その功徳かどうか、佐和子さんは「聞き上手」で素晴らしいインタビュアーになられました。『聞く力』というベストセラーを書かれましたが、「聞く」ことのコツは、相手の話の中に必ず質問の種があるということです。「昨日どこどこに行ってこういうことがあった」と相手が言えば、「どこどこにはよく行かれるんですか」とかね、「いや、たまたま行ったんだ」「いつもはどこが多いんですか」といった具合に無限に話が続くということです。ナルホドではありますが、聞き上手にはやっぱり人柄の魅力があるでしょうね。阿川先生の晩年、最後にお食事した時、佐和子さんは隣で本当に行き届いた心配りをされていました。『叱られる力』には、《人は歳を重ねるにつれ、叱ってくれる年長の人間を一人ずつ失っていきます。そしていつか、誰も自分を叱ってくれなくなるときが来る。》という一節があります。年齢を重ねるにつれ、そのことを実感しま。叱るのと怒るのとは違うんです。今日30代40代の方がおられるなら、叱ってくれる人を大事にしてほし
いと思います。
最後に皇后・美智子さまの話をします。
「文藝春秋」の編集長当時、美智子さまの「子供時代の読書の思い出」という講演原稿を掲載することができました。いま『橋をかける』というタイトルで文春文庫に入っています。講演のなかに、新美南吉の「でんでんむしのかなしみ」の話が出てきます。でんでん虫が、ある日自分の背中の殻には悲しみがいっぱい詰まっていることに気がつきます。友だちを訪ね、もう生きていけないのではないかと、自分の背負っている不幸について話します。友だちのでんでん虫は、それ
はあなただけではない、私の背中の殻にも悲しみは一杯詰まっていると答えます。小さなでんでん虫は、別の友達、また別の友達と尋ねていき、同じことを話すのですが、どの友達からも返ってくる答えは同じでした。そして、でんでん虫はや
っと。悲しみは誰でも持っているのだ、ということに気づきます。悲しみを持っているのは自分だけではないのだ、私は私の悲しみをこらえていかなければならない、と思って嘆くのをやめるというお話です。
皇后さまは、この話をごく小さな子供だった4歳から7歳のあいだに、お母さんか母方のお祖父さんか誰かに読んでもらい、ずっと心に残っていると語っておられます。この講演談話を掲載したあと、文藝春秋読者賞に「子供時代の読書の思い出」が選ばれました。一年間で最も印象に残った記事を読者が投票して選び、その一位になったんです。御所に連絡すると、「皇后さまは『嬉しいけれど、民間の賞を一つ戴くと影響が大きいので辞退いたします』と仰っています」とのこと。それで私たちも「特別賞」という形を設けて、賞品等はなくすことにしました。そのお知らせのために御所に伺い、1時間あまりお話しできたんです。皇后さまは「あの講演を発表した後、年代が合わないのではないか、という投書があったのよ」とおっしゃいました。新美南吉の『でんでんむしのかなしみ』の本が出たのは、美智子さまの子供時代よりもずいぶん後のことだという指摘があったと。調べてみると、『でんでんむしのかなしみ』が本になったのは昭和20年代で、昭和9年生まれの美智子さまは10歳を過ぎておられます。だとすれば確かに年代が合わない。訂正が必要かしらと戸惑っていたら、本になる前、昭和⒑年代に雑誌に発表されたことが分かりました。皇后さまは、雑誌に掲載された話を聞かせてもらったことで氷解したそうです。その話をしながら皇后さまは、「私の記憶が空想か幻覚だったらどうしようと思いました。それにしても、あのお話を聞かせてくれたのは……母だったのかしら、祖父だったのかしら」と遠くを見るような表情をされました。そのご様子に私はとても感銘を受けたのです。
今年亡くなった長田弘という私の好きな詩人が、人は誰でもが自分だけの一冊の本を書いていると言っています。人生は一冊の本。その本にはその人の記憶がいっぱい詰まっているわけです。よく、昔のことは過ぎたことじゃないか、覚えていても仕様がないと言います。確かに、過去は文字通り過ぎ去ったことであって、後戻りはできません。でも、過去と過去の記憶は似て非なるものです。過去の記憶は過ぎ去ったことではない、過ぎ去らなかったことなんです。過ぎ去らないからこそ記憶している、記憶の中の過去は現在と深い関わりがあるということです。皇后さまが小さいころ聞いた「でんでんむしのかなしみ」をいつまでも記憶していて、折に触れ思い出すとすれば、皇后さまの人生がそれを必要としたという事です。いろいろなご苦労がおありだったでしょうが、過去の記憶は人生の支えになります。それが一篇の詩、一篇の小説、一冊の本であることも多いと思うのです。
以前、NHK朝のテレビ小説で「花子とアン」を放映していました。『赤毛のアン』を翻訳紹介した村岡花子がモデルで、彼女がいた東洋英和女学校の卒業式のシーンが印象的でした。卒業式の祝辞で、当時のブラックバーンという女性校長が「貴方たちが将来振り返って、この学校で過ごしたときが一番楽しかったと言うとしたら、私の教育が失敗したという事です、なぜなら、最上のものは過去にではなく将来にあるはずだから」と言うのです。とてもいい言葉ではありますが、それは青春に向けた言葉です。ゲーテは「我々のよき思い出は、今を生きる最良の武器である」と言っています。美智子さまにとっての絵本やご両親との温かい思い出がそうであるように、そして私たちが茨木高校で過ごした時間がそうであるように、過去の記憶は、いまを生きる大切な力になると思います。
ということで、今日のお話を終えさせていただきます。
ありがとうございました。
(了)