2015年度 久敬会 「ミニ講演会」第2回のご報告

2016年03月11日(金)更新
第2回 久敬会ミニ講演会
演題:「大学の過去・現在・未来―日本とフランスの比較から」
日時:2016年1月24日(日) 14時~16時15分
講師:白鳥義彦(高36回 神戸大学大学院人文学研究科教授)
参加者:15名
担当行事委員  辻本、安田、中西、根来
 当日は極寒の日で、今冬の最低気温を記録した。熱心な参加者を前に、ホットな講義が行われた。テーマは多少専門的であったが、京都大学、東京大学大学院、パリ第一大学大学院、他大学での研究をもとに話は順を追って丁寧に進められた。
 導入として、現在の大学教育(高等教育)について、日本とフランスの比較を話された。次に、19世紀末の高等教育の導入と改革について、日本の帝国大学とフランスのグランド・ゼコールから歴史的に現在までの流れを説明された。
 そして戦後の新制大学の成立から最近の動向、さらに大学の未来についてまで、流れるような講義に聞き入りました。質問も2~3あって予定の時間を15分オーバーして終了した。
 大学教育の在り方は、日本の将来に関わり、国民の大きな関心事でもあり、現在、さまざまな議論が行われている。私たちも大学像について関心を持ち、改めてそのありかたを考え、その動向を見守って行きたいと思った。


 
講演要旨(この原稿はご講師から頂きました)

 当日は、時間軸における日仏両国の対比のなかで、以下のような論点に沿って話を進めた。
 
1.日本とフランスの比較の視点
 日本において、高等教育の問題を考える際には、ともすれば米英の大学が比較や参照の対象とされがちであるが、中世以来の大学の歴史の有無、英語圏に含まれない「周縁部」に置かれているという日仏両国に共通する状況、ヨーロッパの大陸型の大学のあり方等からして、フランスも比較や参照の興味深い対象となり得る。国際的に見た両国の特徴として、フランスにおけるグランド・ゼコールの存在、日本における私学の比重の高さをまず挙げることができる。
 
2.19世紀末の高等教育の導入/改革
 明治維新後、日本に近代型の高等教育制度が導入された当初には、工部省工部大学校、司法省法学校のように、実学型のフランスの「グランド・ゼコール」に通ずる教育機関が存在していたが、後に帝国大学(東大)に収斂して、官僚養成が中心的な役割として期待されるようになる。帝国大学は、中世ヨーロッパからの伝統的な学部である神・法・医・文・理の枠を超えた工学部を、世界的な大学の歴史において大学内に初めて取り入れたとされる点でも注目される。また、帝国大学令第1条に「国家ノ須要ニ応スル」と記されているように、日本の大学には「国家のための大学」という性格づけが出発点から刻印づけられている。
 明治維新と同じ時期に、フランスでも普仏戦争の敗北と、第二帝政の崩壊、第三共和政の成立という大きな変動があり、19世紀末に高等教育改革が進められていった。この改革の特徴としては、普仏戦争におけるフランスの敗北は軍事力の面ばかりでなく、フランス科学の敗北でもあったという認識のもと、「科学」に大きな価値を置きながらこれをシンボルとしての社会統合や社会改革が考えられ、その「科学」が行われる場として、「応用」の場としてのグランド・ゼコールと対比される大学の再興が考えられていたということが指摘できる。
 
3.第二次世界大戦後の時期
 日本における第二次世界大戦後の教育改革は、高等教育についても大きな変革をもたらした。戦前の日本の高等教育制度は、帝国大学を頂点としたヒエラルキーによる複線型として特徴づけられるものであったが、こうした旧制の高等教育諸機関をすべて単一な四年制の新制大学に再編する、学校体系の民主化、一元化の原則が貫かれ、この原則に基づく改革が進められたのである
 
4.1960年代末の大学闘争とその影響
 1960年代末には、世界各国で学生による異議申し立てがなされたが、日本およびフランスも例外ではない。また、日仏両国ともに、こうした大学闘争を受けて高等教育改革が試みられたが、その方向性には対照的な側面が見出される。
 日本では、大学闘争への直接的な対応として、1969年の臨時措置法により、学長を中心とする執行部の強化を可能にする措置がとられた。さらに、その後の政策的な対応として位置づけられ得る、1971年の中央教育審議会によるいわゆる「四六答申」では、次のような方向性が示された。
(1)高等教育の多様化のための高等教育機関の種別化と類型化
(2)教育目的、教育機能の重視
(3)学内の中枢的管理体制・機能の強化と、国公立大学の設置形態の改革
(4)高等教育の計画的整備
(5)適当な私立の高等教育機関に対する標準教育費の一定割合の助成
 これらのうち、いくつかについて特に言及するならば、(1)は戦後の高等教育改革の柱であった学校体系の一元化とは異なる方向に舵を切るものである。(3)では管理強化が目指されるとともに、この段階で、2004年の国立大学法人化につながる設置形態の改革の方向性が示されていたのである。
 さらに、1973年には最初の「新構想大学」としての筑波大学が創設されたが、新構想の要点としては、以下の諸点が挙げられる。
(1)教育・研究を一体的に行なう学部の代わりに、研究のための組織として学系を、教育のための組織として学群・学類と大学院の研究科を置くこと。
(2)学長、副学長を中心とする中枢的管理機能の強化と全学的な管理運営組織の整備。
(3)学外の意見を大学運営に活かすため、学長の諮問機関として学外有識者からなる参与会を設ける。
 ここでも、学長を中心とするいわゆる大学執行部の管理機能の強化や、大学運営への学外者の関与等、今日の動向につながる方向性が示されていた。
 一方フランスでは、1968年の「五月革命」への直接的な対応として、1968年11月に「高等教育基本法」(エドガー・フォール法)が成立した。この法律は、以下のような内容を有している。
(1)従来のファキュルテ(学部)は廃止され、代わって「教育研究単位」(UER)によって大学が構成されることとなった。これは、19世紀末以来の、学部ごとの分断を超えた「総合大学」の確立を目指すという方向に連なるものである。
(2)大学人を指すために「教員=研究者」(enseignants-chercheurs)という語が作られ、「教育研究単位」という名が用いられるようになった。これは、教育と研究の役割を明示化するためのものである。
(3)国家が後見の度合いを緩めることを示し、新しい制度に一層の正当性を与えるために、5年任期で教員の中から選ばれる「学長」(président)が大学運営の責任者として新たに位置づけられることとなった。なお、従来は中央省庁から派遣される「大学区長」(recteur)がトップの位置づけであった。
(4)従来行なわれていなかった学生の職業選択に関する指導が大学に義務づけられた。
(5)成人教育への大学の寄与を規定し、大学はすべての人々に開放されるべきことを明確化した。
(6)一大学区に複数の大学を創設できるとした。
(7)講座制の廃止を定めた。
(8)大学の運営への、正教授以外の教員、学生、職員、大学外の者といった、従来の教授以外の、幅広い人々の参加を規定した。
 こうした内容を日本の場合と比較するならば、(8)での大学運営への学生、職員らの「参加」に明示的に示されているように、大学闘争で提起された課題を踏まえながら、大学をより開かれた場としていこうという、日本での管理強化とは異なる方向性を見出すことができる。
 
5.最近の動向
 近年の大学をめぐる議論では、国際的な大学ランキングが引き合いに出されることも多い。Times Higher EducationのWorld University Rankings 2015-2016における、上位100大学の国別分布には、アメリカが39大学、イギリスが16大学、ランクづけされており、この二つの国でその半分以上の数を占めている。その一方で、日本は2校、フランスは1校が100位以内にランクづけされるにとどまっている。
 こうした状況も背景としつつ、21世紀に入った後の時期にも、日仏両国では高等教育改革の動きが進められている。日本では2004年に国立大学の法人化が行われ、フランスでは2007年に「大学の自由と責任に関わる法律(LRU)」が成立した。
 こうした近年の改革では、両国ともに、学長をはじめとする大学執行部を中心とした機動的な大学運営を目指すという方向性は共通している。一方、日本では、国立大学の法人化以降、実態としては文部科学省による「関与」が強まっているとも考えられるのに対して、フランスでは、大学運営への学生の参加に象徴される、民主的側面は維持されている。このように、近年においても両国の大学改革には、共通点とともに根本的な相違点も見出すことが可能である。
 
6.大学の未来?
 近年の日本の大学界は、大学間、学問分野間の序列化や、資源の選択的配分がますます強化される傾向にある。また、旧帝大を頂点とする戦前からのヒエラルキーは戦後すぐの改革の動きにも関わらず結局温存され、競争的資金の配分状況などを見ても、「強者」はますます強くなる傾向にあるとも言える。さらに、「グローバル化」、「実利化」といった傾向を旗印とした大学教育の変容も見受けられる。
 政府からの関与が強かったり、私学=民間・家計への負担転嫁がなされたりという、日本の今日の大学のあり方は、結局、欧米とは異なって国の下部機関として大学が導入された、明治初期の大学制度導入の出発点からの一連の展開のなかでの、歴史的な特性を負ったものである。
 2004年度からの国立大学法人化以降、2013年度までの10年間で国立大学法人運営費交付金予算額は13%減額されている。また定員割れの私学も増加している。かつてはより多くあった助手・助教などの若手ポストは減少し、研究や教育のプロジェクト案の構想・執筆や評価への対応をはじめとして、それ自体としては必要な事柄であるにせよ、教員はますます多忙化してきている。今日、また将来への見通しとして、大学は魅力的な場となっているのであろうか?大学に確固たる展望や明るい未来が開けているわけでは必ずしもないが、目先の事柄への対応などに追われるばかりでなく、大学の本来あるべき姿というものを考えていくことも、実は今日ますます重要なのではないだろうか。
psfuku

2015年度 久敬会 「ミニ講演会」第1回のご報告

2016年03月11日(金)更新
第1回 久敬会ミニ講演会
演題:「報道の重さと怖さ」
日時:2015年11月29日(日)14時~16時20分
講師:石高健次(高21回 ジャーナリスト)
参加者:23名
担当行事委員:辻本、根来、中西
 拉致問題に詳しいジャーナリスト石高氏の原点は生まれ育った旧村落共同体と茨高にあるという。悪ガキで牧歌的雰囲気の中で育ったことが、結果的にはジャーナリストの道に進むことにつながったと述懐された。
 1995年にテレビ放映された大阪のコック原さん拉致実行犯への直撃インタビューを当日見ることが出来たが、それは本当に迫力のあるシーンであった。それまでに積み重ねられた取材の裏打ちがあるとこういう映像ができあがるのかと唸らされた。また言葉を選びながらも敢えて言われた、「70年平和ボケ」の日本と「70年戦争ボケ」の北朝鮮という構図と、北朝鮮側が強く持っている南北朝鮮統一国家目標が拉致問題解決を困難にしているという指摘が現状の理解・認識に大いに役立った。また横田めぐみさん拉致を突き止めそれを家族に告げるときの不安・葛藤を語られたときに、報道人の抱える怖さを垣間見た気がした。
 修羅場をくぐられてきた報道人の一言ひと言は説得力があり、持参された著者割引の本を手に帰途につかれた参加者も多く、休憩なしのあっと言う間の2時間20分であった。


 
拉致報道の軌跡  ジャーナリスト 石高健次

国家が知らなかった「横田めぐみさん拉致」をなぜ、突き止めることができたのか。
拉致取材の発端から小泉総理訪朝(2002年)で北朝鮮が拉致を認め、被害者5人が生還するまでの、石高による主なTV番組制作や出版など報道と事実の経緯 
(敬称略)
1)  『楽園から消えた人々 ~北朝鮮帰国者の悲劇~』
1992年2月:『サンデープロジェクト』(テレビ朝日系)特集で放送
     4月:『テレメンタリー』(テレビ朝日系)で放送
     5月:ドキュメンタリー番組として放送
 横田めぐみ拉致報道につながっていく出発点のドキュメンタリー番組。テレビ朝日系列の全国ネットで放送。
 1991年12月、フランスの商業用衛星が撮影したことで判明した最初の北朝鮮による核開発疑惑を取材するためソウルへ。北の亡命高官の証言を得て『サンデープロジェクト』で特集。このとき、亡命者を保護管理する情報機関とのやり取りのなかで、北朝鮮帰国者で亡命しソウルで暮らす男性の存在を知りインタビュー。彼の一言「帰国者数千人が行方不明になっている」に驚き、取材を始める。
 北朝鮮帰国者とは、1959年の第一船を皮切りに、「地上の楽園」と宣伝された北朝鮮へ永住のために渡った在日朝鮮人や日本人妻。その数、9万3千人にのぼる。彼らは、社会主義祖国建設の夢を北朝鮮に託し、海を渡ったのだった。
 しかし、待ち受けていたのは過酷な思想統制と食うや食わずの生活だった。帰国事業当時の在日韓国・朝鮮人は約60万人。帰国者のうち日本人妻とその子(日本国籍者)を差し引くと実に在日人口の7分の一が北朝鮮へ渡っており、殆どの在日コリアンは、親戚・友人知人をたどれば北朝鮮帰国者に行き当たり、かつ行方不明になった者の情報を持っているのだった。それを公にして救出に結びつけたいが、口にすれば元気な身内まで収容所送りになる・・・。葛藤の中から、それでも上がってくる声を拾った。
 また、北朝鮮政府の高官(副首相補佐官)で帰国者を管理していた者が亡命してソウルにいた。
 取材から、帰国者の2割が政治犯として捕らえられ行方不明になっている事実を『サンデープロジェクト』で放送。100人近い帰国者が日本へ戻ろうと漁船を買うなどし、公開銃殺されていた。
 それまで、日本には「北朝鮮は小さくて貧しい国だが、金日成主席の指導のもと人々は平和に幸せに暮らしている」というイメージがあった。それを打ち砕く、北朝鮮による人間弾圧の実態が詳しくテレビで報道された最初のケースといえる。
 特に在日韓国・朝鮮人社会に大きな衝撃を持って受け止められた。
 ここに、後ろ姿・匿名で登場する在日朝鮮人女性・朴春仙は、帰国者の兄を銃殺刑に処せられていた。しかし、その詳しい経緯は、まだ語らない。
 
 『闇の波涛から~北朝鮮発・対南工作』1995年5月放送
『楽園から消えた人々』から2年後の94年夏、朴春仙が、「2年前は黙っていたが実は・・・」と、兄銃殺の理由となったスパイ辛光洙との同棲のことを話してくれた。
「辛光洙は、大阪のコック原敕晁を拉致し彼に成りすましていた。原さん名義の運転免許証も見た」と。
 日本人拉致の取材が始まった。
 辛光洙の指示で原敕晁拉致を手助けした在日朝鮮人が3人いた。その1人が1985年、辛とともにソウルで逮捕され、減刑・恩赦で仮釈放されていた。金吉旭(2006年4月になって、日本の警察庁が原敕晁拉致で国際手配)である。1995年2月、彼の自宅を韓国済州島に突き止め、張り込みの末、直撃インタビュー。
 金は路上で泣き崩れて拉致を認め、「原さんには気の毒なことをした」と語った。初めて北朝鮮による日本人拉致を実証した。
 同年5月、原敕晁、海岸のカップル3組、ロンドン留学の有本恵子ら日本人計13人が拉致されていると報道。
 しかし、世間は「嘘だろう・・・」「北朝鮮のどこに日本人を拉致する理由があるのだ」「拉致といえば、韓国のKCIAが東京のホテルから野党指導者の金大中を拉致したくらいのものだろう」と受け止めたのか、メディアの後追い取材はなく、放送は社会的に黙殺される形となった。
 番組のラストで朴春仙は全州刑務所に収監されている辛光洙に面会すべく出向くが、彼から拒絶される。
 古くは日本の朝鮮半島植民地支配、その後の南北朝鮮の分断、北朝鮮の対南赤化革命路線という歴史の流れの中で起きた拉致事件。
「対南工作」という言葉が恐らくテレビで初めて使われたのではないか。タイトルにこの文言を使用するに際して緊張した。
 番組は韓国語に翻訳され、95年11月5日、韓国放送公社KBSから放送された。日曜日20:00のゴールデンタイム。放送直後、北朝鮮のラジオが、朝日放送を名指しで「拉致はでっち上げだ」と非難した。
 
2)  単行本『金正日の拉致指令』(朝日新聞社刊) 1996年9月 出版
 ドキュメンタリー『闇の波濤から』を東京で見た朝日新聞出版局の編集者から石高に電話があり、「あの放送内容は事実か?」と。
「間違いないと思う」
「では、本にして訴えましょう。記録としても重要ですから」
本を書くための拉致取材が始まった。
 この過程で、日本政府も警察も知らなかった横田めぐみさん拉致を突き止めるきっかけをつかんだ。
ある北朝鮮工作員が、おそらく平壌の工作員専用915号病院でめぐみさんと見られる女性と身の上話をした。その後の94年、彼は韓国へ亡命し、次のように情報機関に供述していた。
「1976年か77年。13歳、中学1年生の女の子が拉致され平壌で生存している。学校のクラブ活動でバドミントンの練習をして帰宅途中に拉致された。少女は、双子の妹だ。5年経って朝鮮語をマスターしていれば、親の元へ帰すと指示された。必死で勉強し、5年後、帰して欲しいと申し出たが、ダメだと拒絶された。結果、ノイローゼになり、2度目の入院をしていた」
 工作員は、女性の名前や場所名を聞かされていなかった。
 石高は、学校帰りに行方不明になっていれば、少なくとも地元新聞か大手紙県版には記事が出ているだろうと考えた。上記、原敕晁拉致が宮崎市青島海岸からだったこともあり、宮崎市、日南市など地方都市に足を運んでは図書館で新聞の縮刷版をめくった。しかし見当たらない。当時、新聞のネット検索はなく、手間のかかる作業だった。空しく1年半が経過。
 しかし、事態は思わぬ展開を見せる。
単行本が96年9月に出版されると、雑誌『現代コリア』から本を紹介したいと原稿執筆依頼がきた。初めて、「少女拉致」の情報を公にした。
 これがきっかけとなり、少女は横田めぐみだと判明する。
 1997年2月3日 横田めぐみ拉致疑惑 テレビ朝日系ネットニュースで放送。同日発売の「アエラ」が、石高健次が横田めぐみ拉致を突き止めた経緯を含め掲載。産経新聞朝刊が一面で報道。また、同日午後、西村真悟議員が衆議院予算委員会の総括質問で取り上げ、この模様はNHKで中継放送された。
 
3)  『空白の家族たち ~北朝鮮による日本人拉致疑惑』1997年5月放送
 横田めぐみ拉致疑惑報道が行われる11日前。97年1月23日、川崎市の横田めぐみご両親の自宅を訪ね、娘さんが拉致されて北朝鮮で生きている可能性があることを告げる。両親は20年間なんの手がかりもなく過ごしてきた。その果てに、もたらされた娘の生存情報だった。
 北朝鮮による拉致というものを3年前から取材しているが間違いなく拉致は存在することや娘さん拉致の情報を掴むに至った経緯を詳しく告げた。
「しかし、国交がないので政府が動くしかない。5,6年はかかるかも知れない」などと話した。
 しかし、朝日放送では95年の報道が黙殺されたこともあり、政府が動かなければ横田めぐみさんや韓国に情報をもたらした工作員家族の生命に危険が及ぶと判断。彼女を知る工作員に写真面割りをさせるなど、さらに確証を深めるまではと報道を控えた。
 97年2月3日、雑誌「現代コリア」などのルートで、「少女拉致情報」を知った産経新聞と週刊アエラが同時に報じた。これを機に各メディアは一斉に報道。
 3月25日、石高は、かつて李恩恵問題を国会で扱った参議院議員の秘書兵本達吉と協力し合って、互いに面識のない各地の被害者家族に声をかけ、「北朝鮮による拉致」被害者家族連絡会を立ち上げる。
 横田めぐみ拉致発掘のいきさつとその後の政府の動き、家族会誕生、家族たちの苦悩を追ったドキュメンタリー『空白の家族たち』を放送。
 
4)  『これでもシラを切るのか北朝鮮』(カッパブックス)1997年11月出版
 日本政府が北朝鮮に拉致の真相解明と被害者安否確認を要求しても、北朝鮮は「植民地支配という過去の清算から逃れるためのでっち上げだ」などとして拉致の事実を一切認めなかった。しかし、一方で日朝の話し合いは続き、その度にコメなど経済支援を要求し、日本政府は応じるようになった。
 97年11月、北朝鮮帰国者のうち日本人妻が一時里帰りで日本を訪問した。
 このままいけば、拉致は封印されたまま国交樹立に向かうのではとの危惧を抱き、拉致の物的証拠をあらためて突きつける形で本にした。
 
5)  「よど号」の妻、拉致実行を認め両親に謝罪 2002年3月 「ニュースステーション」
 拉致問題はなんら進展なく膠着状態が続いていた。
 この間、よど号の妻・八尾恵が病気から秘密裏に町田市内で入院した。病院を突き止めると見舞い兼取材に幾度か出向き、有本恵子さん拉致について知っていると語り出す。
 同時に、拉致問題を共に取り組んできたテレビ朝日の記者らに知らせ、彼らは八尾の生活周りを世話する。
 2002年3月、テレビ朝日の取材に対し「神戸出身でロンドン留学中の有本恵子さんを拉致しました」と八尾恵が告白。横浜のホテルで有本の両親と対面し謝罪するシーンが『ニュースステーション』で放送されると、再び拉致問題への関心が高まる。放送翌日、政府は有本恵子を拉致被害者と認定し、半年後の2002年9月小泉総理訪朝につながっていく。
 2002年9月17日、小泉総理が平壌訪問。金正日総書記が拉致を認め謝罪。
 同年10月15日、拉致被害者5人が生還。当初、5人は北朝鮮へ戻る予定だったが・・・。
 石高は、福井の故郷に戻った拉致被害者・地村夫妻と3日間を共に過ごし、拙著カッパブックスなどを読んでもらい「北朝鮮へ戻ると二度と日本へ帰って来られない!」と説得。
 彼らが応じたことを同23日朝、自民党組織本部長室で拉致議連の安倍晋三、中川昭一、平沢勝栄に伝え、翌朝、総理官邸近くのキャピタル東急でも鈴木勝也日朝交渉担当大使らに伝えると、新潟へ飛んだ。
 赤倉温泉に居た拉致被害者・蓮池薫夫妻と合流、北朝鮮へ戻らぬよう説得。彼は翌24日午前10時、中山恭子内閣参与に「子供たちを日本へ呼び、協議して戻るかどうかを決める」とTEL。
 以上を受けて、同日16時、福田康夫官房長官が、「本人の意思とは別に、わが政府として5人を再び北朝鮮へ戻さないと決断した」と発表。その後、家族も生還することになる。
 
6)  『光は遠くにありて ~拉致被害者家族の闘い~』2003年5月放送
 2002年9月、日朝首脳会談で、北朝鮮側は「横田めぐみ、有本恵子ら8人は死亡」と通告。被害者家族は絶望のどん底に叩き込まれた。
 しかし、すぐに北朝鮮が提出した死亡確認書がでたらめであることがわかる。被害者の親はすでに80歳を超している。老いの身に鞭打って真相解明を求め、再び立ち上がった。
 わが子は生きているのか、死んでいるのか・・・
「絶望と悲憤」に押しつぶされそうになりながらも、事態を正面から受け止めつつ、光を見出そうと必死に行動する家族だった。
psfuku

【1】120周年記念総会のご報告

2016年03月09日(水)更新
120周年記念総会報告

 今回は120周年を記念するにふさわしく、梅田のホテルの大宴会場での開催となりました。
 第1部の総会は、高26回の大塚氏、高36回の吉田氏の司会で始まりました。今回の参加者は273名。川井副会長の開会のご挨拶のあと、健康上の理由でご欠席の大友会長のメッセージを辻副会長が代読されました。次に、久敬会名誉会長の岡崎校長が母校の現状を報告され、中村事務局長より会務報告がありました。
 今回の記念講演は、文藝春秋社前社長の高17回の平尾氏にご登壇いただき、「出
会いの時間―編集者として」と題して、40数年の編集活動における数々の有名作
家とのエピソードを語っていただきました。(平尾氏の講演の書き起こし文は、このHPで見られます。また、音声と動画についても残されていますので、事務局へ問い合わせ下さい。)
 第一部の締めくくりは音楽のひと時。ギターとバイオリンのフォークデュオ「ざ・サンクス」(高16回の荒田氏、服部氏)による歌唱、そしてざ・サンクスをバック演奏に2014年度の総会でも大変好評であった姉妹によるデュオ「エール・ドゥ」(高37回大石氏、高40回渡辺氏)による歌唱に一同聴き入りました。

 第二部は待望の懇親会。高17回生澤副会長によるご出席の元校長(橋、酒井、田中、岩橋、村岡の各先生)・顧問等(大木顧問、中田東京久敬会会長)の紹介があり、大木顧問のご発声で乾杯し、歓談に入りました。高16回古山氏率いる古山クインテットによるジャズ演奏をBGMに、28個のテーブルでは、同期同士、そして師弟の久し振りの再会に話が弾み、大いに盛り上がっていました。宴も最高潮の中、生澤副会長の音頭で校歌斉唱のあと、柴田副会長の閉会のことばで幕となりました。
 
第1部の総会会場
辻会長代行挨拶
 
岡崎校長挨拶
平尾氏の講演
 
歌と演奏 
(左より大石、渡辺、荒田、服部の各氏)
第2部の懇親会場
 
 
歴代校長と久敬会役員
(左より村岡、岩橋、田中、酒井、橋、辻、
岡崎、大木、中田の各氏)
大木顧問による乾杯
(左より辻、岡崎、大木、中田の各氏)
 
 
古山クインテットによるジャズ演奏
校歌斉唱


 
psfuku

平尾隆弘氏の講演

2016年03月09日(水)更新
平尾隆弘氏の講演
(書き起こし:安田行事副委員長、監修:平尾隆弘)
茨木高校創立120周年 記念講演 2015.11.1

 皆さん、こんにちは。お忙しい中、お運びいただきありがとうございます。本日の会の準備を整えてくださった方々にも、厚く御礼申し上げます。
 今年は創立120周年ですが、50年前、創立70周年には川端康成さんと大宅壮一さんが記念の講演をされました。
 私が文藝春秋に入社したのは1970年です。入社試験の役員面接、つまり最終面接で、「君の高校は昔の茨木中学だろう。大宅さんと川端さんが卒業生じゃないか」と訊かれました。「はい、そうです。創立70周年ではお二人が講演に来られました」「ほお」「川端さんが壇上の水をコップで飲んで《故郷の水はうまいですな》と言われました」と答えたんです。役員たちがみんな笑ったので雰囲気がよくなりました。入社できたのはお二人のおかげかもしれないです。
 ですから今日は、川端さんと大宅さんの話から始めます。年齢は川端さんが大宅さんの一歳上、学年は三つ違いです。大宅さんが茨木中学一年のとき、川端さんは四年生でした。このとき、皆さんご存知のように、全国に先駆けてプールが造られたわけです。我々が泳いでいたのは50メートルプールでしたが、最初は長さ40メートル強、幅30メートル弱という形だったようです。予算がないから生徒が体操の時間に作業に駆り出されで、役割分担する。スコップ組は土を掘り返す。その土を穴から外へ出すのは籠組、掘り出した土を大八車で運ぶ車組、掘った穴に溜まる水をかい出す水車組と、四つに分かれていました。大宅さんは水車組、川端さんは車組です。
 川端さんはいくつもの名作を残しておられますが、もうひとつ、隠れた功績があります。中川李枝子さんと山脇百合子さんという姉妹の絵本作家を世に送り出したことです。1962年、二人の最初の童話が出版された時、第一回野間児童文芸賞の候補になりました。川端さんは選考委員として、「この作品に賞を与えなかったら、自分は委員をやめる」と反対を押し切ったそうです。中川さんと山脇さんはその後『ぐりとぐら』という絵本を発表されました。ご存知の方も多いと思いますが、『ぐりとぐら』は大傑作。日本で一番読まれている絵本になったのです。
 優れた絵本には一生に三回親しむ機会があると言います。最初は子供の時、次は親として、三度目は孫を持つ年齢です。ぐりとぐらは双子の野ネズミの兄弟で、そのままそっくり、幼い子供たちの世界と重なります。子供が最初に友だちになるのは、自分と似ている子供。自分にないものを持っている人と友達になったり、性格が違う相手と恋人になったりするの、は思春期以降の現象なんですね。最初は一人遊びして、自分の分身を作って遊び、次は自分と一番似ている相手を探す。『ぐりとぐら』はその世界にぴったりくる素晴らしい絵本です。というわけで、川端康成さんは、小説のみならず児童文学や絵本の世界にも大変な貢献をされています。
 
 大宅さんは私が入社した1970年に亡くなられました。ちょうどその年、大宅壮一ノンフィクション賞が創設され、大宅さんは第一回目の授賞式だけ出席されたのではないかと思います。大宅さんのお姿は遠くからお見かけしましたが、残念ながらお話はできませんでした。大宅さんの奥さまとは、その後大宅賞の会場でご挨拶して茨木高校の話もしました。「私、先生の後輩なんです」「あらそう。大宅はね、あんまり茨木中学にいい思い出はないみたいよ」と言われて、その話題は入り口で終わりましたが……。奥さまは『大きな駄々っ子』という本を書かれて、そのなかの大宅さんはとても魅力的です。
 大宅さんは半世紀前に出た、『日本のいちばん長い日』という本の監修者になっておられます。今年の夏、映画が公開されたのでご覧になった方もいらっしゃると思いますが、この本は、昭和20年8月14日の正午から、8月15日の正午、昭和天皇の玉音放送がラジオで流れるまで、24時間を1時間刻みで追いかけたドキュメントです。本を書いたのは、実は私の大先輩、当時35歳の社員だった半藤一利さんでした。社業の合間に時間を見つけて取材し、一冊の分量になったので上司に、「こんなものを書きました」と言うと、「うん、なかなか面白い。お前の名前は誰も知らないから、大宅さんの名前を借りて出版しよう」ということになった。50年前、本が出たときもすぐ映画化されたりしてずいぶん売れたんですが、印税は一銭も入らなかったようです。少しくらい貰えないんですかと上司に訊いたら、「お前、取材の電話は会社の電話だろ」「はい」「取材申し込みは会社の名刺だろ」「はい」「じゃぁ仕事じゃないか。給料のうちだと考えろ」と言われたそうです。いまや半藤さんは昭和史の大家になり85歳でご健在、文庫本もご本人の名前で刊行されています。先日お会いした折、「原作者として映画の感想はいかがですか」と伺ったら、ひとつだけ「映画の中で、皆ニッポンと言ってる。鈴木貫太郎までがニッポンと言っているのはちょっとなぁ」と仰っていました。
『日本書記』の呼び名で分かるように、古代は「二ホン」です。「ニッポン」は対外関係が活発になった室町時代あたりから使われました。お札は全部「NIPPON GINKO」と印刷してあるし、切手にも葉書にも「NIPPON」と刷ってあります。でも『日本のいちばん長い日』の時点では、昭和天皇も首相も大臣も軍隊も、映画と違って、自国のことを「ニッポン」とは言っていないのは確かなようです。
 
 今日の演題は「出会いの時間」ですが、私はもともと本や雑誌が好きで、高校時代には小説家になりたいなどと言っていました。実は、勉強しない、勉強ができない言い訳みたいなところがあった気もします。まあ、小学校でガリ版を自分で切って新聞を発行したり、中学・高校では濱くんや高橋くんを巻き込んで「新しい声」という、やはりガリ版刷りの雑誌の発行人をやっていましたから、好きなことは好きだったんです。去年かな、阪大に行った同窓の生島博くんと電話で話す機会があって、「俺、茨高のとき平尾がやってた雑誌に投稿した。そしたらボツにされた。何でや? って聞いたら、オモロナイから、って言われてショックやった」と言われました。覚えてないけど、そのときからもう編集者やってたんだと思いました。
 で、文藝春秋に入社し、編集者としていろんな筆者の先生方を担当しました。スタートは「週刊文春」で赤塚不二夫さんの連載漫画の担当です。赤塚さんは編集者と一緒に漫画のアイディアを考えるので、その天才ぶりに間近で接することができました。ある日、みんなで飲みに行ってわいわい騒いでいた時、当時一番若かった私を、他社の編集者がからかったんです。そうしたら赤塚先生がいきなり「みんな、平尾さんをいじめたら承知しないぞ!」と叫びました。それまでそんなこと一切なかったので、私も皆もビックリですよ。あとでマネージャーの人に「いったいどうしたんですか?」って聞いたら、「先生はね、文春の原稿料をさっき初めて知ったんだ」と言われました。私も知らなかったんですが、少年漫画は1頁8千円なのに、週刊文春は1頁2万円払っていたそうです。会社のおかげで、私も可愛がっていただいたわけです。
 赤塚さんの担当の後、芥川・直木賞や大宅賞の事務方をする部署に移りました。先日、太宰治が芥川賞を欲しくて、佐藤春夫に出した書簡が発見されたり、お笑いの又吉直樹さんが「火花」で受賞したり、芥川賞と直木賞は相変わらず話題になっていますね。
 最初に芥川賞がニュースになったのは、石原慎太郎さんが「太陽の季節」で受賞された昭和30年です。当時、石原さんは23歳。一橋大学の学生でした。この年、国民総生産はやっと戦前の水準に達しています。戦後豊かになったと言われていますが、昭和20年代はまだまだ貧乏だった。「太陽の季節」は完璧にブルジョア青年(アプレゲール)の世界だから、皆驚いたんですね。私がそれを実感したのは、月刊「文藝春秋」で、石原さんと五木寛之さんに対談していただいたときです。お二人は昭和7年9月30日、同年同月同日生まれなんです。お互いすれ違いで、初めての対談。顔を合わせた途端、開口一番、五木さんが、「石原さん、貴方が『太陽の季節』でヨットに乗っていた時、私は貧乏学生だったんだ。学費が払えなくって血を売ってたんですよ」と言われたんです。ドキッとしました。五木さんは、俺は金が無くて大学は中退、血を売るアルバイトもした、あなたはヨットに乗っていい気分で遊んでたと、まあ挨拶代わりにガツンとかましたわけですね。石原さんはどうされたと思われますか。皆さん、「何だって? それがどうしたんだ」と言うと思うでしょう? ところが、心底感心した表情で「えーっ、そうなんだ、それは大変だったんだなぁ」と素直に応えられたんです。石原さんは世間では傲慢な人のように思われていますが、実物はとてもシャイで素直というかナイーブなところがあって、このときもそんな反応でした。五木さんも拍子抜け。石原さんにとても好感を持たれて、対談はとてもいい雰囲気で進みました。
 芥川・直木賞の係になったとき、上司に「賞は『くれてやるんじゃない。差し上げるもの、貰っていただくものなんだよ。受賞者に第一報を入れるのは君なんだから、くれぐれもエラそうにしちゃいけません」と言われました。受賞のお知らせと同時に「お受けいただきますか」と訊きなさいとも言われたんです。ナルホドと思って、いよいよ選考委員会に臨み、まず直木賞に藤本義一さんの「鬼の詩」という作品が決まりました。で、大阪の藤本さんに電話して、「日本文学振興会の平尾と申します」と名乗りました。実はこれだけで、候補になった人は自分が受賞したと分かるんです。日本文学振興会は受賞者にだけ連絡する、受賞できなかった候補者にはそれぞれの担当者が電話します。だから午後5時から選考会が始まって、7時か7時半頃に電話がかかってきて、「オール讀物の誰々です」とか「文學界の何々です」と担当者が名乗れば、「ああ、今回は駄目だったか」となる。私が「ただいま第71回直木賞選考委員会が終わり、藤本義一さんの受賞が決定いたしました」と言ったら「ありがとうございます」と答えられました。そこまではいいんですが、何分初めてで「お受けいただきますか」と訊くのを忘れっちゃった。「明日上京して文春に伺います」とか藤本さんが言ってる話をさえぎって、「あのーですね、お受けいただきますか」とおっきな声を出して聞いてしまいました。
 翌日、来社された藤本さんに「あんた、受賞式の話してる最中、『お受けいただきますか』はないやろ。ビックリしたで。『いや、要りません』って言いたくなったわ」と言われました。それ以来、控えめにさりげなく「お受けいただきますか」と伺うようになりました。
 偉いと思ったのは司馬遼太郎さんです。選考が終わった後、毎回記者発表があります。選考委員を代表して、お一人が選考経過を説明されるのですが、あるとき司馬さんが席につかれました。選考の概要を話されると、記者が「下馬評では有力だった〇○は、なぜ受賞しなかったのですか」と聞きました。よくある質問で、たいていは「うん、こういう意見があって、惜しかったけど今回は受賞にいたらなかったんだ」と答えられます。司馬さんは違いました。ちょっと困った表情をされて、「あのなぁ、本人がどうしても候補にしてくれ言うたわけやないやろ。勝手にこっちが候補になってもらって、それでどこがアカン、どこが足りんと言うのは失礼やろ、そやから勘弁してな」と答えられたんです。そんな答え方をされた先生はいなかったので、強く心に残りました。後年、司馬先生にお会いした時、「私はあの直木賞の記者会見におりまして、先生のお答えに感動しました」と言ったら、「ああ、あの会場にいてたの、そうかいな」みたいな感じでね、司馬さんにとってはどうという事はない、当たり前のことだったんだと思います。
 芥川賞も直木賞も文藝春秋が主催しているから、選考には文春の意向が介在するといったことをよく言われます。しかし、それはまったくありません。もう時効だと思ってパーティで話したことがありますが、あるとき芥川賞の選考で、二作受賞か受賞作なしかで議論が分かれたことがありました。私は隅っこの方に坐って聞いていましたが、そのとき当時の社長が、恐る恐る「いかがでしょうか、二作受賞というわけにはいかないでしょうか」と発言しました。すると、選考委員の永井龍男先生が大声で、「君は黙ってろ!」とお怒りになったんです。
「私たちは文藝春秋のために選考しているんじゃありません。日本文学のためにやっているんです」と言われて、そのあとがもっと怖かった。「君がそういう余計な事を言うなら。今回の受賞作はなしにします」ということになりました。社長は米つきバッタのように「申し訳ございません」と謝っていましたが、結局受賞作なしで終わりました。あとで聞いたら。永井先生は戦前「オール讀物」編集長で、社長は入社したばかりの平社員だったそうです。そんなことがありますから、文藝春秋としてはひたすら恭順の意を呈して選考経過に口出しすることはありません。
 
 編集者として、とりわけ印象深いのは山崎豊子先生です。私は戦争孤児と日中合弁の製鉄事業をテーマにした『大地の子』と、沖縄返還にからむ外務省機密漏えい事件を扱った『運命の人』という小説に関わっています。
1987年4月。月刊「文藝春秋」の編集部で連載される「大地の子」担当のご挨拶で、編集長と社長と一緒に大阪府堺市の浜寺のご自宅に伺いました。初対面のことはよく覚えています。先生は「私、一作に5年も6年もかけてるの。この小説が上手く行かんかったら5年6年がパーになってしまう。よろしゅう頼んますわ」と、手を開いて「パー」の仕草をなさいました。
 山崎先生は日本に珍しい、というか一人しかいない長篇小説作家です。あ、ついでに言うと、先生の名前は「やまざきとよこ」じゃなくて「やまさきとよこ」で濁らないんです。「小説では、悪役に濁点つけてるの。やまざきやと悪役になってしまうがな」と仰っていました。「やまざき」だと作者も悪役になってしまう。確かに、『白い巨塔』のダーティ・ヒーロー「財前五郎」には三つも濁点があるし、誠実な医師は里見は名前が澄んでいる。私の名前は「ひらおたかひろ」で、「平尾さんは濁点があらへんな。悪玉と違うな」と言われて「ありがとうございます。でも先生、ぶんげいしゅんじゅうには三つも濁点がありますね」と笑ったことがあります。
 長篇小説の話に戻りますが、山崎先生の執筆年数56年間で、作品の点数はわずか17点、驚くほど少ないんです。司馬さんや清張さんは、長篇小説の数がもっと多いし、短編小説もありエッセイや紀行文もあります。山崎先生は長編小説一本にかかりきりで、『大地の子』は取材に3年、執筆に4年かけられました。その間、短編小説もエッセイも書かない。講演も対談もやらない。文壇づきあいもないし、出版社のパーティなど出たことがないといった徹底ぶりです。テレビにも出ないから、作家の名前よりも、『白い巨塔』『華麗なる一族』『不毛地帯』『二つの祖国』『大地の子』『沈まぬ太陽』といった小説のタイトルのほうが有名でしょう。先生はしょっちゅう「私は作家馬鹿やから」と言っておられました。ご主人がいるのに炊事洗濯掃除など、家事はいっさいしない。小説を書くしか能がないということで一見謙虚ですが、実は全身全霊を込めて小説を書いているという自負があったと思います。
 それだけに小説には全力投球。担当になったとたん毎日のように連絡が来ます。「意見なき者は去れ」が口癖で、ほめても駄目なんです。「べんちゃらはいらん、アカンのはどこや?」。注文をつければ「さすがは平尾さん。あんたみたいな人を待っとったんや」とべんちゃらも仰います。「主人公の陸一心がピンチになった。さぁどうする?」みたいな質問も突然来ます。1回1時間として、毎日に近く電話があると、他の仕事も抱えていますから、ちょっと閉口するときもありました。しかし振り返ってみると、編集者として滅多にない経験で、ものすごく勉強させてもらったと感謝しています。
『大地の子』は、中国側の取材協力があって初めて可能になりました。当時、開放路線を敷いた胡耀邦総書記との出会いが大きな後押しになっています。改革派の胡耀邦が総書記でなかったら、辺境にある労働改造所や政治の中枢である中南海を取材することなどできなかった。先生は胡耀邦さんへの恩義を強く感じておられ、彼が失脚し、1989年4月15日に亡くなった時は、「何があってもお弔いに行く」と言われました。
 私は校了日が近いし他の仕事もあるので、「先生、ご一緒できませんが」と申しましたら、「私ひとりで行く」と断固たる決意でした。 そのときの先生の迫力は凄かったです。
 先生が北京に行かれたのは89年の4月下旬で、6月4日の天安門事件の直前です。天安門事件は胡耀邦の死去がきっかけで、4月に下旬にはデモ隊が連日天安門広場に集結し、自由化を要求していました。北京空港に降り立った時の先生の写真を見ると、胸を張って踏ん張って立って、背中には桃太郎みたいなノボリの旗が立っています。ノボリには「追悼 胡耀邦先生 / 日本国作家 山崎豊子」の二行が墨痕鮮やかに書いてある。以下は帰国後に伺った話です。官憲の監視のなかで、胡耀邦さんの自宅付近に到着すると、周りにはずらりと警備員が並んで、その外側にまた群衆が押しかけている。先生がノボリを背に近寄ると、官憲側は「立ち入り禁止」にして入れてくれない。しかし周りの群集は「入れてやれ、入れてやれ」との大合唱。先生は中国では有名人なんです。小説の海賊版が出まわっていて、特に銀行を描いた『華麗なる一族』は、資本主義の悪を描いた名作として高く評価されている。それで群衆は応援してるわけです。大方の警備員は「まぁいいか」みたいになったんだけど、1人だけ、先生は「金バッジ」と言っていましたが、胸に金の徽章を付けた男が頑張っている。金バッジは、どうやらその場の最高責任者みたいなんです。先生はとうとう堪忍袋の緒が切れて、持っていたカルティエのショルダーバッグで、その金バッジを思い切り殴りつけたそうです。バッチンバッチン殴っているとさすがに金バッジも迷惑そうに後ずさりしたので、その隙にさっと家の中に入り込んだ。胡耀邦さんの奥さんは、外の様子にハラハラしていたので、先生をすぐ家に引っ張り込んで、2人抱き合って号泣しあった。その抱き合っての号泣写真は、同行したカメラマンが何枚も撮っているので、私も記念にいただきました。バッグの留め金が壊れちゃったので、帰国してから先生が高島屋に修理に出したところ、「よほど強いものをお打ちになりましたね」と言われたそうです。
 そういった迫力は全作品に共通で、来年の1月、三回忌を記念して大阪と京都の高島屋で展覧会がありますから、興味あるかたは覗いてみてください。

 山崎先生は一昨年亡くなられ、今年8月には阿川弘之先生がなくなられました。お別れ会はこの24日です。編集者として、敬愛していた作家の方が鬼籍に入られるのは本当に寂しいことです。私は「個人追悼」と称して、お会いした筆者の方が亡くなった日、一日でもいいから一人でその方の本を読むようにしています。藤本義一さんがなくなられた時も、「鬼の詩」を読み返しました。阿川先生の場合もそうしたいと思ったのですが、『山本五十六』『米内光政』や『暗い波濤』など長篇が多い。考えているうちに、そういえば阿川先生が『耳嚢(みみぶくろ)』って面白いんだ、と仰っていたことを思い出しました。で、岩波文庫の『耳嚢(みみぶくろ)』を取り出して読み始めたら、これが面白いんです。三巻本ですが、同僚や古老の話を集めたものなので、一つ一つは短いんです。その中に、「老人え教訓の歌のこと」がありました。
 今日は久敬会の辻本さんにお願いして、ペーパーをお手元に配っていただきました。辻本さんに「今日久敬会に来られる方の年齢はいくつくらいですか」と伺ったら、「去年は60歳以上の参加者が72%でした」と丁寧なお返事をいただきました。じゃぁ話が通じるし、会場に足を運ばれるわけで皆さんお元気だから失礼じゃないだろうと思いました。
  • ・皺はよるほくろは出来る背はかがむ
    頭は禿げる毛は白くなる
  • ・手は震ふ足はよろつく歯は抜ける
    耳は聞こへず目はうとくなる
  • ・よだ(よだれですね)たらす目しるをたらす鼻たらす
    とりはづしては小便ももる
    (「とりはづしては」は失禁してという意味です)。
  • ・又しても同じ噂に孫自慢
    達者じまんに若きしゃれごと
  • ・くどふなる気短になる愚痴になる
    思ひ付(つく)こと皆古ふなる
  • ・身に添ふは頭巾・襟巻・杖・目鏡・
    たんぽ・温石(おんじゃく)・しゅびん・孫の手
    (「たんぽ」は湯たんぽ、しゅびんは尿瓶シビン)。
  • ・聞きたがる死にともながる(「死にたい死にたい」って言う)淋しがる
    出しゃばりたがる世話やきたがる
 
ざっと読んでいただければ分かるように、よくまぁこれだけ網羅した。それに、江戸時代からあんまり変わってないなぁと思いますよね。続いて作者の狂歌で、その前に注釈があります。
「是をげに姿見として、己(おのれ)が老いたる程を顧みたしなみてよろし。し
からば何をか苦しからずとして、ゆるすぞといわば、」と書いて、狂歌を自分で作
ったのです。つまりどうしたらいいか、解決策を歌ったわけです。
  宵寝・朝ね・昼寝・物ぐさ・物忘れ
  夫(それ)こそよけれ世に立たぬ身は
  要するに、他人に干渉しないでゆっくりしたらどうかということ
です。阿川先生が『耳嚢(みみぶくろ)』のこの箇所を面白いとおっしゃったかど
うかは分かりません。分かりませんが、この狂歌と先生の老後の出処進退とは相
関関係があると思っているんです。
 先生は「文藝春秋」で毎号「巻頭随筆」を執筆され、私も担当させていただきましたが、九十歳を前にご自分から連載を 降りると言いだされました。毎号、文章を読む楽しみを味わわせてくれる貴重な原稿でしたから、「もっと続けてください」と皆でお願いしました。先生の答えは、「出ずるときは人に任せ、退くときは自ら決せよ」。辞める時期は自分で決めるということでした。いっそう尊敬して自分も見習いたいと思いました。
 先生が80歳前後、『二十世紀 日本の戦争』という大座談会を「文藝春秋」でお願いしたことがあります。日露戦争から湾岸戦争までの五つの戦争を検討するので、お弁当を用意して7,8時間ぶっとおし。阿川先生はメンバーの最年長。それなのに、皆疲れて姿勢がだんだん崩れてくるなかで、最後まで背筋をピンと伸ばしておられました。戦後生まれの出席者の一人が、「やっぱり阿川さんは凄いなぁ。姿勢が変わらないんだもん。大岡昇平さんが、『戦争を知らない人間は、半分は子供である』と書いているけど、我々は姿勢ひとつとっても半人前だよねぇ」と語っていました。
 阿川先生は、私たちには紳士、ジェントルマンそのものでとても優しかったん
ですが、お嬢さんの阿川佐和子さんに言わせると「この家に生まれたことが不幸
なんだ」とずっと思っていたくらい、家庭内では独裁者だったようです。
 佐和子さんの著書『叱られる力』に、小さい頃のお誕生日の話が出てきます。お誕生日、先生が中華料理店に連れて行ってくれます。先生が車を運転して、助手席にはお母さん、後部座席に佐和子さんとお兄さんが坐るのが決まりでした。中華を食べ終わって、お店のドアを開けたら北風がびゅうっと吹いてきた。「寒い!」と思わず口にしたのが最悪の事態を招くんです。「寒い? 寒いとはなんだ、誕生日にせっかくご馳走してやったのにどういうつもりだ」と先生が癇癪玉を破裂させます。「ああ美味しかった」とか「ご馳走さまでした」がないのがまずかった。佐和子さんは叱られてワンワン泣きだし、帰りの車の中でも泣いている。先生の方は運転しながら後部座席の佐和子さんに怒鳴りまくっている。お母さんは普段は黙っているのですが、さすがに見かねて禁断の一句を言ってしまいます。「もうそんなに怒らなくてもいいじゃないですか。佐和子も分かったと思いますから」。これが癇癪玉にガソリンをふりかける効果があって、「なんだと?」となるわけです。「だいたいお前の教育がなってない。子どもを甘やかすからこうなるんだ」「でも…」「俺に文句があるのか。気に入らないなら出ていけ。いますぐクルマを降りろ!」となりまして、とうとうお母さんは途中の道端で降ろされちゃう。テレビの「私が子供だった頃」という番組に佐和子さんが出ていて、この誕生日のシーンを映像で再現していました。後部座席に腰かけている兄弟二人が、後ろ向きになって「おかあさ~ん」と泣いている。道端で放り出されたお母さんの立ち姿がだんだん小さくなっていく。運転している阿川先生役の男は、口を「へ」の字に結んでムスッとしていました。テレビの放映直後に佐和子さんにお会いしたので、「思わず笑っちゃいました」と言ったら、「笑い事じゃなかったのよ」と言っておられましたが。
 その功徳かどうか、佐和子さんは「聞き上手」で素晴らしいインタビュアーになられました。『聞く力』というベストセラーを書かれましたが、「聞く」ことのコツは、相手の話の中に必ず質問の種があるということです。「昨日どこどこに行ってこういうことがあった」と相手が言えば、「どこどこにはよく行かれるんですか」とかね、「いや、たまたま行ったんだ」「いつもはどこが多いんですか」といった具合に無限に話が続くということです。ナルホドではありますが、聞き上手にはやっぱり人柄の魅力があるでしょうね。阿川先生の晩年、最後にお食事した時、佐和子さんは隣で本当に行き届いた心配りをされていました。『叱られる力』には、《人は歳を重ねるにつれ、叱ってくれる年長の人間を一人ずつ失っていきます。そしていつか、誰も自分を叱ってくれなくなるときが来る。》という一節があります。年齢を重ねるにつれ、そのことを実感しま。叱るのと怒るのとは違うんです。今日30代40代の方がおられるなら、叱ってくれる人を大事にしてほし
いと思います。
 
 最後に皇后・美智子さまの話をします。
「文藝春秋」の編集長当時、美智子さまの「子供時代の読書の思い出」という講演原稿を掲載することができました。いま『橋をかける』というタイトルで文春文庫に入っています。講演のなかに、新美南吉の「でんでんむしのかなしみ」の話が出てきます。でんでん虫が、ある日自分の背中の殻には悲しみがいっぱい詰まっていることに気がつきます。友だちを訪ね、もう生きていけないのではないかと、自分の背負っている不幸について話します。友だちのでんでん虫は、それ
はあなただけではない、私の背中の殻にも悲しみは一杯詰まっていると答えます。小さなでんでん虫は、別の友達、また別の友達と尋ねていき、同じことを話すのですが、どの友達からも返ってくる答えは同じでした。そして、でんでん虫はや
っと。悲しみは誰でも持っているのだ、ということに気づきます。悲しみを持っているのは自分だけではないのだ、私は私の悲しみをこらえていかなければならない、と思って嘆くのをやめるというお話です。
 皇后さまは、この話をごく小さな子供だった4歳から7歳のあいだに、お母さんか母方のお祖父さんか誰かに読んでもらい、ずっと心に残っていると語っておられます。この講演談話を掲載したあと、文藝春秋読者賞に「子供時代の読書の思い出」が選ばれました。一年間で最も印象に残った記事を読者が投票して選び、その一位になったんです。御所に連絡すると、「皇后さまは『嬉しいけれど、民間の賞を一つ戴くと影響が大きいので辞退いたします』と仰っています」とのこと。それで私たちも「特別賞」という形を設けて、賞品等はなくすことにしました。そのお知らせのために御所に伺い、1時間あまりお話しできたんです。皇后さまは「あの講演を発表した後、年代が合わないのではないか、という投書があったのよ」とおっしゃいました。新美南吉の『でんでんむしのかなしみ』の本が出たのは、美智子さまの子供時代よりもずいぶん後のことだという指摘があったと。調べてみると、『でんでんむしのかなしみ』が本になったのは昭和20年代で、昭和9年生まれの美智子さまは10歳を過ぎておられます。だとすれば確かに年代が合わない。訂正が必要かしらと戸惑っていたら、本になる前、昭和⒑年代に雑誌に発表されたことが分かりました。皇后さまは、雑誌に掲載された話を聞かせてもらったことで氷解したそうです。その話をしながら皇后さまは、「私の記憶が空想か幻覚だったらどうしようと思いました。それにしても、あのお話を聞かせてくれたのは……母だったのかしら、祖父だったのかしら」と遠くを見るような表情をされました。そのご様子に私はとても感銘を受けたのです。
 今年亡くなった長田弘という私の好きな詩人が、人は誰でもが自分だけの一冊の本を書いていると言っています。人生は一冊の本。その本にはその人の記憶がいっぱい詰まっているわけです。よく、昔のことは過ぎたことじゃないか、覚えていても仕様がないと言います。確かに、過去は文字通り過ぎ去ったことであって、後戻りはできません。でも、過去と過去の記憶は似て非なるものです。過去の記憶は過ぎ去ったことではない、過ぎ去らなかったことなんです。過ぎ去らないからこそ記憶している、記憶の中の過去は現在と深い関わりがあるということです。皇后さまが小さいころ聞いた「でんでんむしのかなしみ」をいつまでも記憶していて、折に触れ思い出すとすれば、皇后さまの人生がそれを必要としたという事です。いろいろなご苦労がおありだったでしょうが、過去の記憶は人生の支えになります。それが一篇の詩、一篇の小説、一冊の本であることも多いと思うのです。
 以前、NHK朝のテレビ小説で「花子とアン」を放映していました。『赤毛のアン』を翻訳紹介した村岡花子がモデルで、彼女がいた東洋英和女学校の卒業式のシーンが印象的でした。卒業式の祝辞で、当時のブラックバーンという女性校長が「貴方たちが将来振り返って、この学校で過ごしたときが一番楽しかったと言うとしたら、私の教育が失敗したという事です、なぜなら、最上のものは過去にではなく将来にあるはずだから」と言うのです。とてもいい言葉ではありますが、それは青春に向けた言葉です。ゲーテは「我々のよき思い出は、今を生きる最良の武器である」と言っています。美智子さまにとっての絵本やご両親との温かい思い出がそうであるように、そして私たちが茨木高校で過ごした時間がそうであるように、過去の記憶は、いまを生きる大切な力になると思います。
 ということで、今日のお話を終えさせていただきます。
 ありがとうございました。
(了)
psfuku

【2】記念展示「資料でつづる茨木高校の120年のあゆみ」

2016年03月09日(水)更新
記念展示「資料でつづる茨木高校の120年のあゆみ」
(学校との共同開催)
日時:会場久敬会館2階会議室 
内容:①母校の120年
    ②旧校舎
    ③伝統ある行事 
    ④著名な卒業生(高碕、川端、大宅、米沢)
    ⑤プールのあゆみ(ロス五輪の入江稔夫氏の銀メダル展示)
 
 学校と久敬会の間で、昨年度から実行委員会が何度か開かれた。この行事は学校との共同開催として行われたが、展示内容については学校の方で企画された。
 学校では校史編纂委員長の吉村先生を中心に、卒業生教員が仕事を分担された。久敬会では卒業生コーナーの分担や、当日の受付警備を担当した。さらに展示に関わる費用を負担した。
 展示期間中、来場者は大変熱心に展示物や説明文に目を向けられ興味深く観察しておられた。期間中、吉村先生による30分~60分の解説が何度か行われ、その時居合わせた方には大変喜ばれた。展示目録が作られ、著名な卒業生のコーナーでは、高碕氏・川端氏・大宅氏・米沢氏の紹介パンフが用意された。また、中46回の小笠房一氏からは「大宅壮一顕彰碑除幕」(平成21年5月30日)のカラーのパンフレットが提供された。
 期間中の来場者は、茨木高校在校生が最も多かったが久敬会員、PTA会員、中学生の入学希望者、一般の方々を含めて1400名であった。
 
  
 
 なお、展示内容は、広報委員会の森本 均副委員長によって、このHPに大変詳しく紹介されているのでご覧いただければと思います。 ↓ 下記のタイトルをクリックして下さい。
psfuku

【3】プール開放の集いのご報告

2016年03月09日(水)更新
プール開放の集い ― 学校プールを久敬会員に開放 

 創立120周年記念行事の一環として、久敬会会員にプール開放が、平成27年9月6日(日)行われました。会報発行から日も浅く、案内が行きわたらなかったことや前日からの雨が残り、少し肌寒い日だったこともあって参加は少なく、世話役などを入れて総勢19名でした。 
 保健体育の須斎先生には会場の準備等お世話いただきありがとうございました。準備体操の後、さすがに腕に自信のある方ばかり、泳ぎ・クロール・背泳と得意の泳法で悠々と泳がれる姿は見事でした。水泳部OBなどの久敬会員の尽力により2014年2月から設置された太陽光パネルでプールの水が循環・加温されるようになったので、水はあまり冷たくなく、休憩も忘れて広いプールを自由に思いきり泳いでおられました。
 「飛び込んでもいい?」と積極的な女性、古式泳法を披露してくださる水泳部OB、水球部のOBに水球のパスやゴールの手ほどきを受けたりして、それぞれ十分に楽しんでいただいたようです。また、プールサイドでは、お菓子と飲み物が用意され、昔のプールの話も弾んで楽しいひと時を過ごしました。
行事担当者:辻本昭信、根来悦子、山中淳子、大塚康央、岩井八郎
 
  
psfuku

【4】120周年記念久敬会妙見夜行登山のご報告

2016年03月09日(水)更新
120周年記念久敬会妙見夜行登山
 
 2016年1月30日(土)ら31日(日)にかけて、120周年行事として久敬会妙見夜行登山が行われました。Lコース(50km)46名、Sコース(30km)14名、その他10名のスタッフの計70名、中46回から高66回まで幅広い年齢の方々の参加がありました。
 学校行事としての妙見夜行登山は、1925年(大正14年)に始まり、今年で77回を数えます。久敬会行事としては、100周年、110周年に続いて3回目となります。
 Lコースは午後4時半頃久敬会館を出発、安威川土手を北進し、途中山手台小学校、泉原老人集会所で休憩後、午後10時前に豊能町余野でSコースと合流。 野間トンネルまでの上り、本瀧寺までの下りを経て漸く標高660mの妙見山への登山開始。今年は暖冬のため雪はなかったものの、しんしんと底冷えした空気の中を軽快に登っていく人、ゆっくりと足元を確かめながら登っていく人、皆さん、昔を思い出しながら登られたことでしょう。
 妙見山頂には午前0時頃に到着。山頂では住職様のご厚意によりお借りした星嶺ホールにて、スタッフが用意した豚汁で身体を温めました。また、妙見夜行登山が始まった頃にケーブルカーが開業したというご縁で能勢電鉄様より暖かい応援をいただき、在校生の夜行登山の様子をまとめたビデオを鑑賞しました。岡崎校長先生は出発式に引き続きこの山頂にも登場、参加者を激励されていました。
 復路は午前1時半頃に山頂を出発。寄せては返す睡魔と戦いながら歩を進め、泉原老人集会所での甘いぜんざいでエネルギーを補給。最後の休憩所山手台小学校で鮮やかなご来光を拝み、31日朝9時頃に全員無事久敬会館にゴール。スタッフと参加者全員の思いやりと団結力で成功裏に終了した120周年記念妙見夜行登山は校歌斉唱(最後に一本締め)で幕を閉じました。
 
 参加された3名の医師の方には、多くの薬品や医療器具を持って来ていただき、万全の備えをして下さいました。お陰で安心して行事を進めることが出来ました。
 また、お世話になった他の関係者の方々にも厚くお礼申し上げます。
 妙見実行委員:辻本昭信、安田佳典、根来悦子、中西雅治、岩井八郎、
           大塚康央、岡田篤彦、林直樹、前山邦昭、吉田敦子、吉岡秀紀


30日(土)午後4時半久敬会館出発


安威川沿いを北上
 

本瀧寺からいよいよ山頂アタック!


妙見山頂社務所前通過
 

星嶺の間で住職さんや能勢電鉄関係者の紹介

 
星嶺の間で豚汁に思わずこぼれる笑顔


星嶺ホールで集合写真


妙見山頂で目に飛び込んでくる池田の夜景
 

泉原老人集会所でぜんざいに舌鼓


山手台小学校でご来光に元気回復


最後の2キロの長いこと!


校歌斉唱(最後に一本締め)で無事散会
 
psfuku

第4回は【思い出の旧校舎】

2016年01月22日(金)更新
記念展示「資料でつづる茨木高校120年の歩み」
第4回は【思い出の旧校舎】を紹介します
 
【展示風景】 【解説パネル】

 

≫ 続きを読む
psfuku

第3回は【歴史概観(昭和戦後期・平成期)】

2015年12月09日(水)更新
記念展示「資料でつづる茨木高校120年の歩み」が久敬会館で
 第3回は【歴史概観(昭和戦後期・平成期)】を紹介します

 
『昭和戦後期』
『平成期』
【展示風景】

 

≫ 続きを読む
psfuku

第2回 歴史外観(明治・大正・昭和戦前期)

2015年11月16日(月)更新
 記念展示「資料でつづる茨木高校120年の歩み」
 2回目は【歴史概観(明治・大正・昭和戦前期)】を紹介します。


【展示風景】
『明治期』
『昭和戦前期・大正期』
 

【解説パネル】
『明治期・歴史概観』
『昭和戦前期・大正期』

psfuku

第1回「展示風景」と「茨木高校120年年表」

2015年11月10日(火)更新
 記念展示「資料でつづる茨木高校120年の歩み」が久敬会館で平成27年10月13日~10月24まで開催されました。
 この記念展示を、久敬会ホームページで、数回のシリーズで紹介します。

 第1回は【展示風景】と【茨木高校年表】を紹介します。

 次の01~14の項目をクリックすると大きな画像をご覧になれます。
 また、スライドショーででもご覧になれます。ゆっくりとご覧ください。
  次回は「歴史概観コーナー」の詳細を紹介する予定です。

展示風景
gallery
psfuku

記念展示「資料でつづる茨木高校120年の歩み」

2015年10月14日(水)更新
無事開催終了いたしました。
おって、そのときの模様はホームページへ紹介します。

 
記念展示「資料でつづる茨木高校120年の歩み」
パネルと秘蔵資料200点以上展示中。
 
10月13日~10月24日(土)開館時間10時~16時30分
久敬会館2Fで開催中です。この機会をお見逃し無く。
 

準備中の久敬会館

【展示概要】
  1. 歴史外観(明治期・大正期・昭和前期・昭和後期・平成期)
  2. 思い出の校舎
  3. 伝統ある行事(体育祭・妙見夜行登山。修学旅行・その他)
  4. 著名な卒業生コーナー
    高碕達之助(中4回)、川端康成(中18回)、大宅壮一(中21回)、米沢富美子(高9回)
  5. プールと水泳(入江稔夫(中30回)オリンピック銀メダルほか)
psfuku
このページのトップへ